第三章 孤高の王女01
「ちょっとトイレに行ってく……あ、ついてこなくていいから。悲しそうな顔をしても無駄よ」
ちょっと甘やかすとお尻まで拭いてこようとするのだ。
最初は「異世界ってこういうものなんだ」とか「郷に行っては郷に従え」とか思っていたけど、最近ようやく「やっぱりこれなんかおかしくない?」と気付いた。
「は~どっこいしょ」
無駄に広いトイレ。
いつになっても慣れることはなく、ソワソワしてしまう。さっさと用を済ませてモノを流し終えた時だった。
「久しいの、小娘」
「ぎゃあ!?」
心臓の辺りを押さえて飛びのく。
外から焦ったように「如何なさいましたか、スミレ様!?」と聞こえるが、「何でもないのよ! 虫よ!」と叫んで、トイレから顔だけ出して「虫……?」と顔をしかめる狐を睨みつけた。
「……今さら何の用よ」
「随分なご挨拶よ。せっかく朗報を持って来てやったと言うに」
「朗報? 何、帰れるわけ? それ以外は朗報とは呼ばないわ」
「では残念なお知らせである」
「…………」
こいつ何の悪びれも無く……一体何のために出てきたというのか。そもそも自分のせいでこんなことになっていると、これっぽっちでも思ったことがるのだろうか。いや、ないだろう。
「よいか、小娘。これより先、我と連絡を取りたいと思うた時は、便所へ向かって声をかけよ」
「嫌よ」
即答したのが気に入らなかったのであろう狐は、再び顔をしかめた。
しかし、私にだってプライドというものがある。どこの世にトイレに向かって相談事をする女がいるというのだ。
「便所に向かって話しかける程、落ちぶれちゃいないわ」
「便所ではなく、話すのは我である。声をかけるのは、あくまで挨拶。よもや挨拶も無く我と話を始める程、愚かな人間ではあるまい?」
「便所に向かって挨拶する事は愚かじゃないというの? 傍から見たらどうみても愚かだと思うわ」
「分からぬ人間よ。便所ではなく我に挨拶を……」
「あんたは便所の神様なの?」
「……何?」
狐は不機嫌そうな声を出した。しかし、所詮は狐。ちっとも怖くない。
「便所が気に入っているの? 何故いつも便所なの?」
「気に入っているわけではない。たまたま便所なのだ。もうよい。話にならんようだから用件のみ言うぞ。困った時は便所に向かって『我、人にして人にあらず。時の狭間を切り裂いて、来たれ来たれ狐の王よ』と言え。さすれば、馳せ参じよう」
「貴方が来て何の意味があるか分からないけど……もし、もしもよ? もし、貴方に感謝をするような情報を与えてくれると言うのであれば、私は深々と頭を下げ……」
「1つ良い情報だ。純白の王がもうじきそこの扉を蹴破る。尻をしまえ」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げて礼を言った瞬間、扉は蹴破られた。
事前に情報を得たとはいえ、若干遅かった。若干遅かったが為に、私はパンツを上げることしかできなかった。
「貴様という女は……」
「ちょっと間が悪かったから、不思議な光景を見る羽目になっただけだわ」
狐の口に押し込んでやろうと思って大量に手に取った消臭剤。
その姿勢のままパンツに手をかけながら便所を覗き込んだ私を、まるで汚物を見るような目で見ているルイ。後ろのメイドも「こいつ、頭は大丈夫だろうか」と言った表情だ。
「何をしている」
「見て分からない? 狐と話していたの」
「な、何?」
「狐よ。私がここに来る原因となった狐」
ルイは憐れむような表情をして、小さくため息を吐いた。
ブツブツと「少々きつくしすぎたか」等と言ってはため息を吐き、それから顔を両手で覆って再度深くため息を吐く。
そして勢いよくメイド達の方を振り向くと、鬼のような形相で低くつぶやいた。
「何か見たか?」
「い、いえ、私どもは何も見ておりません」
「では、持ち場へ戻れ」
メイド達はサッとスカートを持ち上げて挨拶をすると、音も無く去っていく。
「私はお前が思いのほか弱い心を持っていることに失望している」
「待ちなさいよ。別に頭がおかしくなったわけではないわ」
「じゃあどうしてそんな愚かな事を言い出すんだ!!」
「やっぱり愚かだと思うわよね!?」
私は「あの狐にもそうだと言ったのよ!」と叫びながら、トイレのふちに手をかけた。
「我、人にして人にあらず。時の狭間を切り裂いてぇぇええぇ……!? ちょっとルイ! 引っ張らないでくれるかしら!」
「やめろ! 私が悪かった!!」
「本当なんだってば!」
「やめてくれ! どこにトイレに向かって叫ぶ女がいる!」
最低。こいつ、私の頭がおかしくなったと思っているんだわ。何その憐れみに満ちた表情。私が背中を怪我したり、ガリガリに痩せた時にも同じ顔をしてほしかった。
「とにかく、今日はゆっくり休め。戸の前にニコラスを置いておく。用があったら、狐ではなくニコラスを呼べ。いいな」
「だから……」
「いいな!?」
「……分かったわよ」
別に信じて欲しいなんて思ってないもの。
だから……。
「愚かな女よ」
「狐てめぇーーーー!! ルイ! こいつよ!! この狐が私を……」
私の声に小さく飛び上がって驚いたルイは、慌てて私の指さす方を見る。
そして、顔をしかめた。
「……ただの便器だ」
「……うっそ……いるのに」
「人にして人にあらず。それがお前の立ち位置よ。だから我が見える。その王もまた人にして人にあらず。しかし存在する世が違う。だから我が見えぬ」
「……」
斯くして、私は1日ベッドで安静にするよう命じられた。