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第23話 消えないなら、選べる

 失敗率、零。


 その数字は、今も褒め言葉ではない。


 ユリスは、自分の掌を見下ろした。


 木箱を壊した手には、傷も痛みも残っていない。

 熱も、衝撃も、何かを砕いた感触さえなかった。


 今までは、それが怖かった。


 自分だけが何も失わないまま、どこか別の場所で何かが壊れている。

 そんな気がしていたからだ。


 けれど、さっきは違った。


 木箱が砕けた直後、閉鎖式測定用結界の床と壁と天井に白い線が走った。

 結果のあとに、遅れて現れたもの。

 消えたのではなく、別の場所へ押し流されたもの。


 それが、負荷。


 負荷は消えない。

 なら、どこかに行っている。

 どこかに行っているなら、いつか、その行き先を見つけられるのかもしれない。


「ユリス?」


 リナの声で、ユリスは顔を上げた。


 廊下の白い光の中で、リナがこちらを見ている。

 オレンジ色の短い髪が、窓から差し込む光を受けて揺れていた。


「どうした?」


「いや、こっちの台詞なんだけど」


 リナは小さく笑った。


「ずっと手、見てたから」


「ああ……」


 ユリスは掌を握った。


「何も残ってないんだなって、思ってた」


 口にした瞬間、自分でも嫌な言い方だと思った。


 木箱は壊れた。

 結界は軋んだ。

 測定官たちは騒いだ。

 それなのに、自分の手には何もない。


 リナは少し考えてから、ゆっくりと言った。


「何も残ってないわけじゃないと思う」


「え?」


「さっき私が言ったこと、ちゃんと聞いてた?」


 リナは、ユリスの右手ではなく、顔を見た。


「怖がってたけど、逃げてなかったって」


「……聞いてた」


「なら、それでいいよ」


「それでいいって……」


「うん。今日のところは」


 リナは少しだけ笑った。


「全部分からなくても、逃げなかったなら前進でしょ」


 ユリスは言葉に詰まった。


 前進。


 そんな言葉を、自分の今日に当てはめていいのか分からなかった。


 木箱は壊れた。

 結界は軋んだ。

 測定官たちは、通常分類不能と告げた。


 それでも、リナは前進と言った。


 成功でも失敗でもなく、前に進んだのだと。


「……前進、か」


「少なくとも、さっきのユリスはね」


 リナは少しだけ明るく言った。


「まあ、顔はすごかったけど」


「すごかったって……どんな顔だよ」


「世界の終わりを見た人みたいな顔?」


「最悪じゃないか」


「でも、今は違うよ」


 リナはユリスの顔をのぞき込むようにした。


「まだ怖そうだけど、さっきより下は向いてない」


 ユリスは思わず黙った。


 自分では気づかなかった。

 けれど、言われてみれば、確かに足元ばかりを見てはいなかった。


 廊下の先を見ている。

 窓の外の白い光を見ている。

 セリアの方を見ている。


 怖さが消えたわけではない。

 胸の奥の重さも、なくなったわけではない。

 それでも、測定室の中で木箱が砕けた瞬間とは少し違っていた。


 何も分からない暗闇の中にいる感じではない。


 暗闇の奥に、細い白線が一本だけ見えたような感覚だった。


「リナ」


 セリアが静かに声をかけた。


「測定の結果、詳しく聞いてもいい?」


「あ、私の?」


「ええ。希少適性と言われたのなら、記録内容を確認しておいた方がいいわ」


「セリア、そういうところ急に先生みたいになるよね」


「必要なことよ」


「うん、分かってる」


 リナは素直に頷いた。


「補助・治癒系の反応が強いって。特に、回復反応と魔力循環の安定が両方出てるって言われた」


「両方?」


「うん。傷を塞ぐ力と、乱れた魔力を整える力。どっちも反応が安定してるみたい」


 リナは少し照れたように笑った。


「正直、すごいって言われたのか、珍しいから調べられたのか、よく分からなかったけど」


「どちらもでしょう」


「え?」


「治癒と補助の両方に安定した反応が出るのは珍しいわ。傷そのものを治す力と、傷ついた相手の魔力循環を支える力は、本来は別の適性として見られることが多いもの」


 セリアの声は淡々としていた。

 けれど、その言い方は冷たくなかった。


「あなたらしい適性ね」


 その一言で、リナの表情が少しだけ緩んだ。


「えへへ……私、人助けができるかな?」


「きっとできるわ」


「だとしたら、すっごく嬉しい」


 リナはそう言って、無邪気に笑った。


 リナに向いていた青い瞳が、今度はユリスへ向く。


「ユリス、さっき、負荷が出たと言ったわね」


「ああ」


「床、壁、天井。閉鎖式測定用結界の保護層と分散層に現れた」


「測定官もそう言ってた」


「なら、少なくとも分かったことがある」


 セリアの声が少し低くなる。


 講義のようではなかった。

 目の前の現象を、一緒に見ようとしている声だった。


「あなたの魔法は、結果だけを生んで終わるものではない」


「……学長も言ってた。負荷は消えないって」


「ええ。でも、それは悪いことだけではないわ」


「悪いことだけじゃない?」


 ユリスは思わず聞き返した。


 木箱は壊れた。

 結界は軋んだ。

 もし人に負荷が向かっていたらと思うと、今でも背筋が強張る。


 それを悪いことだけではないと言われても、すぐには飲み込めなかった。


 セリアは少しだけ考えてから、言葉を選ぶように続けた。


「消えないということは、どこかに残るということよ」


「それは、危ないってことだろ」


「そうね。危ないわ」


 セリアは否定しなかった。


 大丈夫だとは言わない。

 怖がらなくていいとも言わない。

 危ないものは危ないものとして、そのまま置いた。


「でも、残るなら観測できる。観測できるなら、流れを読める可能性がある。流れを読めるなら――」


 セリアはそこで一度、言葉を切った。


「いつか、行き先を選べるかもしれない」


 行き先を選べる。

 その言葉が、ユリスの胸に触れた。


 消えないから怖い。

 ずっとそう思っていた。


 けれど、セリアは違う見方をした。

 消えないから、探せる。

 消えないから、選べるかもしれない。


「……選べるのか?」


「今はまだ無理よ」


 即答だった。


「そこは少し優しく言えよ」


「曖昧な希望を渡しても意味がないわ」


「それはそうだけど」


 リナが隣で小さく笑った。


「セリアらしいね」


「でも」


 セリアは続けた。


「無理だと決まったわけでもない。あなたは今日、負荷がどこにも消えていないことを知った。今までは結果だけを見ていた。でも、これからは違う。結果の裏側を見ることができる」


 結果の裏側。

 その言葉が、ユリスの中に残った。


 今日、初めて違うものを見た。

 成功した瞬間ではなく、そのあとに走った白い線を。

 結果が成立したあとに、遅れて現れた負荷を。


「俺は……」


 ユリスは、自分の声が思ったよりもかすれていることに気づいた。


「ずっと成功してるんだと思ってた。いや、違うな。成功してるって言われても、ずっと変だと思ってた。成功したはずなのに、いつも何かが間違ってる気がしてた」


 村でのことが頭をよぎる。


 割れなかった皿。

 へこんだ床板。

 止まった倒木。

 傷ついた妹の腕。


 助かった。けれど、傷は残った。

 成功した。けれど、何かを押し流した。

 その意味が、今なら少しだけ分かる気がした。


「今日、初めて見えた」


 ユリスは言った。


「俺が成功って呼んでたものの、裏側が」


 言ってしまうと、怖さがまた胸の奥からせり上がってきた。

 けれど、不思議と足はすくまなかった。

 見えたものから目をそらしたくない。

 そう思えた。


「見えたなら、次は覚えられるわ」


 セリアが言った。


「覚える?」


「ええ。どんなときに負荷が生じるのか。どこへ逃げるのか。どの程度の結果で、どの程度の反動が出るのか」


「そんなの、分かるのかよ」


「分からないから、調べるの」


 セリアの答えはあまりにも当然のようだった。


「調べるって……俺の魔法を?」


「他に何を調べるの?」


「いや、そうだけど」


「あなたの魔法は危険よ」


 セリアははっきりと言った。


「でも、危険だから見ない、では何も変わらない。危険だからこそ、見る必要がある」


 その言葉に、ユリスは何も返せなかった。


 危険だから、使わない。

 危険だから、離れる。

 それが今までの自分だった。


 でもセリアは違う。


 危険だから、見る。

 危険だから、知る。

 危険だから、扱う方法を探す。


 その考え方は、ユリスには眩しく見えた。


「……こんな力、やっぱり怖いよな」


 ユリスがそう言うと、セリアは少しだけ目を細めた。


「怖いわ」


 意外なほど、答えは早かった。


「怖い、のか」


「当然でしょう。術式未成立、属性変換なし、到達経路なし。それなのに対象破壊だけが成立する。そんなもの、普通に考えれば怖いに決まっているわ」


「そこまで言うか」


「事実よ」


「……知ってるけど」


「でも」


 セリアは、ユリスから目をそらさなかった。


「怖いから、見ない理由にはならないわ」


 その一言に、ユリスは息を止めた。


「私は、怖いものを怖くないふりで扱うつもりはない。怖いなら、なおさら正体を知らなければならない」


 セリアの声は静かだった。


「あなたの力も同じよ」


 リナが今度こそ笑った。


「セリア、ユリスを安心させたいのか怖がらせたいのか、どっち?」


「安心だけさせても意味がないわ」


「うん、セリアだね」


 リナの笑い声が廊下に小さく響いた。


 測定室の前だというのに、その声は少しだけ空気を軽くした。

 ユリスも、ほんのわずかに口元を緩める。


「でも、ユリス」


 リナが言う。


「私は、さっきの話、ちょっといいと思った」


「どれ?」


「行き先を選べるかもしれないって話」


 リナは窓の外へ目を向けた。白い王都の屋根が、遠くに並んでいる。


「私の魔法も、たぶん似てるんだと思う。痛みを消すだけじゃなくて、傷ついた体や乱れた魔力を、ちゃんと元に戻していく。何もなかったことにするんじゃなくて、戻るための道を作る感じ」


 リナは自分の胸元に手を当てた。


「だから、全部すぐに元通りにできなくても、助かる方向へ進ませることはできるかもしれない」


 ユリスは、リナを見た。


 リナの言葉は、セリアとは違う。

 理論ではないし、構造でもない。

 けれど、人の痛みや怖さを、そのまま見ている言葉だった。


「助かる方向へ……」


 ユリスは小さく繰り返した。


 今まで、自分はずっと逆を願っていたのかもしれない。


 失敗しないでほしい。

 誰も傷つかないでほしい。

 何も壊れないでほしい。

 全部、うまくいってほしい。


 その願いが、結果だけを先に成立させていたのだとしたら。

 そして、その裏側の負荷がどこかへ押し流されていたのだとしたら。


 必要なのは、何も壊さないことではないのかもしれない。


 どこへ負荷が流れるのかを見ること。

 壊れてはいけないものを、壊さないようにすること。

 そのために、壊れてもいい場所を選ぶこと。


 まだ、うまく言葉にはできない。

 けれど、胸の奥で何かが形を持ち始めていた。


「消えないなら、選べる……」


 ユリスは呟いた。


 セリアが静かに頷く。


「ええ。今はまだ、可能性だけだけれど」


「十分だよ」


 自分で言ってから、ユリスは少し驚いた。


 十分。


 そんな言葉が、自分の口から出るとは思わなかった。


「だって、今までは何も分からなかった。俺の魔法は、勝手に成功して、勝手に何かを壊すだけだった。でも今日、負荷があるって分かった。だったら……いつか、見つけられるかもしれない」


 ユリスは、セリアを見た。


「その行き先を」


 セリアは、ほんの少しだけ目を見開いた。

 すぐにいつもの冷静な表情に戻ったけれど、青い瞳の奥に、わずかな光が宿っている。


「いい答えね」


「珍しく褒めたな」


「必要なときは褒めるわ」


「そうなのか」


「ええ」


 セリアは淡々と答えた。


「今のあなたは、午前より少しましよ」


「それは褒めてるのか?」


「かなり」


 リナが横で吹き出した。


「セリアの中では、すごく褒めてると思う」


「分かりにくいな」


「慣れるしかないよ」


「慣れるのか、これ」


「時間はかかるかもしれないけどね!」


 そんなやり取りをしているうちに、廊下の先から他の生徒たちの声が聞こえてきた。


 笑っている者、結果について話している者、不安そうにしている者。

 それぞれが、次の場所へ向かっていた。


 ユリスも、ここで立ち止まっているわけにはいかなかった。


「戻るか」


 ユリスが言うと、リナが頷いた。


「うん。私、ちょっと座りたい」


「緊張してたんじゃないか」


「してたよ。だから座りたいの」


「そうか」


 リナは少しだけ笑ってから、セリアを見る。


「セリアも来る?」


「ええ。途中まで」


 三人は、測定室の前を離れて歩き出した。


 白い廊下を進む。

 窓の外では、王都アルヴェリアの光が静かに揺れている。


 学院の壁は相変わらず白い。

 床も、柱も、遠くに見える塔も、何も変わっていない。


 それなのに、ユリスには少しだけ違って見えた。


 今までは、その白さが眩しすぎた。

 自分には場違いで、遠くて、息が詰まるような色だった。


 けれど今は、その白さの中にも線が見える気がした。


 壁を支える線。

 床を区切る線。

 窓枠の影。光と影の境目。


 どれも、何かを分けている。

 閉じ込めるためだけではない。


 守るために。

 流れを整えるために。

 外へ広がりすぎないようにするために。


 線には、いくつもの意味があるのかもしれない。


 廊下の途中、壁の白い石材に学院章が刻まれていた。


 白い塔を囲む、三本の線。

 制服の胸元にも同じ印があるはずなのに、石に刻まれたそれは、なぜか少し重く見えた。


 初めて見たときは、守っているようにも、閉じ込めているようにも見えた。

 今も、その印象は消えていない。


 けれど今日のユリスには、ほんの少しだけ別のものにも見えた。


 何かを守る線。

 何かを止める線。

 そして、どこかへ流すための線。


 ユリスは足を止めた。


「ユリス?」


 リナが振り向く。


 セリアも立ち止まった。


 ユリスは学院章を見上げたまま言った。


「線って、閉じ込めるだけじゃないんだな」


 リナは少し首を傾げた。


 セリアだけが、すぐに意味を察したようだった。


「そうね」


 セリアは静かに言う。


「線は、境界よ。内と外を分けるもの。でも、分けることは、閉じ込めることだけではない」


「守ることもできる」


「ええ」


「流すことも?」


「できるわ」


 その答えに、ユリスは小さく頷いた。


 まだ、分かっているわけではない。


 自分が何をできるのか。

 どうすれば負荷の行き先を選べるのか。

 本当にそんなことが可能なのか。


 何も分からない。

 けれど、分からないことは終わりではないのだと、今は思えた。


 分からないなら、見ればいい。

 見えたなら、覚えればいい。

 覚えたなら、いつか選べるかもしれない。


 ユリスは学院章から目を離し、前を向く。

 廊下の先には、まだ白い光が続いている。

 怖さは消えていない。胸の奥の重さも、なくなってはいない。


 それでも、足は止まっていなかった。


「行こう」


 ユリスは言った。


 リナが明るく頷く。


「うん」


 セリアも静かに歩き出した。


 三人の足音が、白い廊下に重なる。


 負荷は消えない。

 それは、怖いことだ。

 けれど、消えないなら、見つけられる。

 見つけられるなら、いつか選べる。

 何を守り、何を逃がし、何を受け止めるのか。


 まだ遠い。

 まだ届かない。


 それでもユリスは初めて、その先へ歩いてみたいと思った。


「そうそう」


 セリアが、ふと思い出したように言った。


「四月から始めるわよ」


「えっ、何を?」


「特訓よ」


 ユリスは思わず足を止めかけた。


「……へ?」


「あなたの魔法を見るための特訓」


「それ、特訓っていうのか……?」


「言うわ」


 セリアは当然のように答えた。


 リナが隣で小さく笑う。


 ユリスは息を吐き、それから前を向いた。


 怖さはまだ消えていない。


 けれど、足は止まっていなかった。

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