田中たかし特異点
朝のホームルームは、いつもより静かだった。
いや、静かというより、同じ音が反響しているような、不自然な均一さがあった。椅子のきしみ、筆箱のふたが鳴る乾いた音、誰かの咳。どれも同じタイミングで重なり、教室の空気が一枚の膜みたいに張りつめている。
俺は自分の席に座り、前の黒板を見た。
出席番号の読み上げが始まると、その理由がはっきりした。
「田中たかし」
「はい」
反射みたいに返事が返る。声の高さも、返事の速さも、微妙に違う。
「田中たかし」
「はい」
「田中たかし」
「はーい」
先生の視線は名簿をなぞっているのに、教室の視線はどこにも定まらない。だって、名簿の半分以上が同じ名前なのだ。
田中たかし。田中たかし。田中たかし。
数年前までは都市伝説みたいに語られていた。クローン技術が成熟し、倫理の綱引きがすり減って、いつのまにか「個体を増やす」ことが特別じゃなくなった時代。
ただし、誰もが自分を増やしたわけじゃない。
田中たかしだけが、増やし続けた。
田中たかしはクローン技術の権威で、研究室の写真で見る彼はいつも穏やかな笑みを浮かべていた。白衣に、髪を整えた額。講演会のポスターには「未来の医療と人類の拡張」と踊る文字。
その未来が、俺の隣の席に座っている。
隣の田中たかしは、机の上に小さな栄養ゼリーを置いて、ストローで吸っていた。授業中なのに堂々としている。先生が咳払いをすると、彼は肩をすくめて笑った。
「朝は固形物むりなんだよね」
声は柔らかいが、目はどこか眠そうで、誰かの事情を説明するというより、自分の仕様を報告しているだけの感じがする。
後ろの田中たかしは、机の上に缶コーヒーを並べていた。ラベルの色が全部違う。ブラック、微糖、カフェオレ。甘党と苦党と、眠気覚ましが同居している。
「違い、あるんだな」
俺が小声で言うと、斜め前の田中たかしがこちらを振り向いた。彼は何か紙袋を抱えている。中からパンの香りが漏れてきた。
「あるよ。俺はメロンパン派」
メロンパン派。そう言って、彼は得意げに頷く。
俺の右隣の田中たかしは、眉間にしわを寄せて教科書を指でなぞっている。真面目なタイプだ。彼の机の上には消しゴムが二つ、定規が一本、シャーペンの芯ケースが揃えられていた。
「雑談は集中が切れる」
小声で注意されて、俺は軽く手を上げて謝った。
個体差がある。好きなものも違う。
クローンはコピーではなく、量産された「同じ型の人間」で、環境と習慣で容易に枝分かれする。それを証明するように、同じ顔が同じ教室に詰め込まれ、同じ名前で呼ばれながら、それぞれ別々の癖を持っていた。
ただ、俺は時々わからなくなる。
これは、普通なのか。
教室の前に立つ先生も、田中たかしだった。
スーツの着こなしが妙に上品で、黒板に書く字がやけに綺麗な田中たかし。彼はチョークを置き、教室を見回して、微笑んだ。
「今日は遺伝と環境の話をする。……君たちの身近な例としてね」
教室のあちこちで、田中たかしが笑った。笑い方も、口元の癖も、少しずつ違う。
俺は、笑えなかった。
授業が終わる。昼休み、田中たかしが群れになる。群れといっても、仲がいいわけじゃない。むしろ互いに互いを避けるように、遠巻きに距離を取っている。鏡を見せられ続けるのは誰だって疲れる。
俺は廊下の窓から校庭を眺めた。
校庭にも田中たかしがいる。体育の準備体操で、同じ顔が同じ角度で腕を回している。ただし、よく見るとテンポが微妙に違う。速い田中、遅い田中、肩が硬い田中、妙に柔らかい田中。
違う。違うのに、同じ。
その矛盾が、じわじわと世界を侵食している気がした。
放課後、俺は一人で校門を出た。
駅前の通りはいつも通り賑やかで、コンビニの前で誰かが立ち止まり、路地裏から甘い匂いが流れてくる。だけど、人混みの中にも、田中たかしがいる。
スーツ姿の田中たかし。制服姿の田中たかし。子どもを抱えた田中たかし。自転車でスマホを見ている田中たかし。
街全体が、薄い田中たかし色に染まっていく。
俺は足早に歩き、交差点の角で立ち止まった。
そこに大型モニターがある。ビルの壁面に埋め込まれた、ニュース用の巨大スクリーン。帰り道の誰もが一度は目にする、世界の「今」を垂れ流す窓。
その画面が、いつもより眩しかった。
ニュースキャスターが淡々と原稿を読む。もちろん、田中たかしだ。
あまりに自然で、俺は一瞬、笑いそうになった。笑えないのに、笑うしかないような感覚。喉の奥がひりつく。
「臨時速報です」
画面の下に字幕が流れ、背筋が冷える。
「世界総人口の半数が、田中たかしとなりました」
ざわめきが周囲に広がる。通行人が立ち止まり、スマホを構え、誰かが小さく「うそだろ」と呟く。
キャスターは目を伏せるでもなく、感情を足すでもなく、続けた。
「これを受け、国際管理機構は本日、世界の統治権限を再編する決定を発表しました。新たな区分により、この世界を田中たかしのものとします」
世界を田中たかしのものとします。
言葉が、頭の中で反響した。
隣の人が口を押さえ、誰かが笑い出しそうになって、笑いを飲み込んで咳き込む。冗談みたいな宣言。なのに、画面の下に映し出されるのは、難しい顔をした会議室の田中たかし、壇上で署名する田中たかし、拍手する田中たかし。
俺は手のひらに汗をかいていた。
視界の端で、警備ドローンが交差点の上空を横切る。いつもの風景のはずなのに、急にそれが「監視」に見えた。
ニュースの続きが流れる。
「なお、人口比率の偏りが臨界値を超えたため、特定個体の増殖行為を危険因子と見なし、元来の均衡を回復するための措置が取られます。対象は――」
キャスターが、目線をカメラに戻した。
そして、ほんの少しだけ、言い淀む。
「……『田中たかし以外』です」
世界が、一拍遅れて凍った。
モニターの前にいた誰かが、ゆっくりと振り向いた。そこに立っていたのは、俺と、数人の「田中たかしじゃない人間」だった。
田中たかしの群れの中に混じる、異物。
異物は、排除される。
その仕組みが、この世界の常識として、今まさに更新された。
俺の耳に、自分の心臓の音がうるさいほど響く。息を吸うと、空気が冷たい。吐くと、白くならない。それなのに、世界が冬みたいに硬い。
ああ、そうか。
増えすぎたら消されるのは、こっちだったのか。
そう思った瞬間、交差点の信号が青に変わった。
人波が動き出す。田中たかしが歩く。田中たかしが目を上げる。田中たかしが、俺を見る。
俺は、足が動かなかった。
大勢の同じ顔の中で、ただ一人、名前を持たないみたいな気持ちになった。俺は俺のはずなのに、世界の更新で、俺は急に「例外」になった。
大型モニターの中で、田中たかしが微笑んだ。
「田中たかしの皆さま、ご協力をお願いします」
世界の半分に向けた呼びかけは、もう合図だった。互いの顔を確かめる必要すらない。名前だけで、役割だけで、手順だけで動ける。
俺は宛先に入っていない。その事実が、いちばん確かな死刑宣告だった。




