見えない手
金曜の夕方、帰り支度をしている砂原に声をかけた。
「なあ砂原、来週の資料、ちょっと一緒にまとめてくれないか?」
「え、今ですか?」
「いや、来週の火曜まででいい」
「……あー、火曜までなら大丈夫です」
心の中で舌打ちした。
“日曜”という言葉を引き出させたかったのに、彼は賢く避けた。
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土曜の昼過ぎ、上園からメッセージが来た。
〈今、駅前で砂原と真嶋さん見たぞ。腕組んでた〉
短い文章なのに、胃の奥が重くなる。
知らなければよかった。
いや、本当は知りたかった。
それでも、その光景が頭に浮かぶと、息が詰まりそうになる。
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月曜。
昼休み、砂原が俺の席に来た。
「日下部さん、明日の夜ちょっと飯行きません?」
「悪い、明日は残業入ってる」
「そっか、残念」
残業――嘘だ。
俺はただ、彼の“別の約束”を潰したかった。
理由なんて考えるまでもなく、口が勝手にそう動いた。
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別の日。
真嶋がいるフロアに用事もないのに足を運び、砂原を呼び出した。
「この前の案件の件で、ちょっと相談」
彼は少し困ったような顔をしたが、俺のところに来た。
話は五分で済む。
それでも、彼女と一緒に過ごすはずだった時間を奪ったという事実が、妙な安堵をくれた。
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夜、風呂場の鏡に映る自分の顔を見て、ふと気づく。
口元が笑っていた。
笑っているのに、目は少しも笑っていない。
“利用されるなよ”
上園の言葉が耳の奥で蘇る。
利用? 違う。
俺が彼を利用してるんだ。
彼が俺の時間を奪うのではなく、俺が彼の時間を奪う――そう思えば、少しだけ胸が軽くなる。
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その夜、砂原から短いメッセージが届いた。
〈またご飯行きましょう〉
それだけの文章に、俺は長い時間をかけて返事を打った。
〈いいな。いつでも誘ってくれ〉
いつでも――本当は、俺が決めたい。
彼の“誰と過ごすか”も、“どこで過ごすか”も。