それでも!
木曜の午後。
給湯室で紙コップにコーヒーを注いでいると、背後から軽い足音と、間延びした声が近づいてきた。
「なあ日下部、砂原の彼女って、どこの子か知ってる?」
コーヒーを注ぎ終える前に、その名前が耳に落ちた。
振り向くと上園がにやりと笑っている。
「……は?」
「聞いてないの? 他部署の真嶋さんだって。ほら、あの明るい感じの子」
「……付き合ってんのか?」
「うん、らしいよ。けっこう堂々と一緒に帰ってるらしいし」
コーヒーの香りは、急に何の意味もなくなった。
紙コップを持つ手が、わずかに震える。
揺れを隠すように口元へ運び、一口飲む。
熱さは舌に残ったが、味は消えていた。
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デスクに戻ると、砂原が女子社員と並んで談笑していた。
その光景は、ほんの数日前までなら「彼は社交的だな」としか思わなかったはずだ。
だが今は、彼の笑顔の隅々まで疑わしく見える。
誰に向けた笑顔なのか。
俺が金を払って見せてもらった笑顔と、同じものなのか。
胸の奥に、ざらつくものが沈殿していく。
怒りと言ってしまえば簡単だが、それよりももっと冷たいもの。
水面下で、ゆっくりと温度を失った氷のような感情。
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帰り際、エレベーター前で声をかけた。
「砂原、今週末、またどっか行かないか」
「あー……すみません、日曜は予定入ってて」
「予定?」
「ちょっと、友達と」
「……そうか」
“友達”――その言葉の表面だけをなぞる。
深く考えると、別の単語に置き換わってしまいそうだから。
だが、頭の奥ではもう勝手に変換されていた。
“彼女”と。
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その夜、ベッドの中で天井を見つめる。
スマホがすぐ手の届く距離にあるのに、触れない。
送ってしまえば、何かが壊れる気がした。
でも、このままだと、もっと別の何かが壊れそうだった。
散々使った金と時間。
俺はそれで、確かに彼との距離をつなぎ止めてきたはずだ。
けれど、繋いでいたと思っていたのは、俺の勘違いだったのかもしれない。
彼はあっさり、別の場所へ行ける人間だったのかもしれない。
布団の中で、笑顔の砂原と、知らない女の影が交互に浮かんだ。
その二つを頭から追い出すために、眠るしかなかった。