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第9話 施療院の朝

 次の日の朝、街は濃い霧に覆われていた。

 霧の向こうの空は暗い灰色で満たされ、前日の青空が恋しくなってくる。


 私は凍える手を擦り合わせながら施療院へと向かい、木の扉を押し開けた。

 扉に付いた鈴がちりんと鳴り、暖炉の前に座っていた先生がこちらを向く。


「おはようございます、グレンクロフト先生」

「おはようございます、エレナさん」


 先生の前にはり鉢といくつかのガラス瓶が置かれ、何らかの薬品を砕いている最中だったことが伺えた。


「ちょうどよいところに来てくれました。ちょっと擂り鉢を使う練習をしてみましょう。むらなく全体を均等に擦り潰せるようになるには、少し鍛錬が必要です。」

「はい、先生。…………これは、カモミールですか?」


 先生の前に置かれた薄茶色のガラス瓶に入っていたのは、ハートブリッジの邸宅にいた頃に香草湯(ティザン)として何度も飲んだ、乾燥させたカモミールの花。


「そう、カモミールです。香草湯(ティザン)として飲まれるものと同じですが、医学においてはこれは、『万能薬』の一つに分類されます」

「万能薬……? 私、知らずに飲んでいました」


 カモミールにそんな効果があっただなんて。万能薬――いかにもお医者様らしい響きの言葉に、ちょっとだけわくわくする。


「カモミールには体を温める性質があります。熱病や風邪の初期に服用すれば効果が期待できますし、患部の腫れを抑える薬、消化の不良を和らげる薬、鎮静作用をもたらす薬として、それぞれ軽い効果があります。それと……」

「それと……?」


 言い淀んだ先生に、好奇心を込めた瞳を向ける。


「その……。女性の月のものに伴う痛みや、気分の不調にも効果があります」


 視線を明後日の方向に向けた先生が、少し顔を赤くしながら呟いた。

 私は、侍女のハンナが毎月特定の時期にカモミールの香草湯(ティザン)を出してくれていた理由に思い至る。

 少なくとも彼女は、その効能を知っていたらしい。


「そ、そうなのですね、ありがとうございます。それでは、早速すり潰していきますね」

「ええ、お願いします。煎じるにせよ油に漬けるにせよ、材料をすりつぶすことで、より薬効を引き出すことができます。大事なことですよ」


 先生の指導を受けながら、カモミールをすりつぶすこと七、八分。


「先生、これって……結構手が疲れるんですね……」

「そうなんですよ。なかなか大変です。でも、かなり上手になってきましたね。これなら擂り鉢の扱いはエレナさんにお任せしても大丈夫そうです」

「は、はい……! 頑張ります……!」


 ……鞄持ちもあるし、腕にだけものすごく筋肉が付きそう。


「……大丈夫。長時間の作業になる時は私も手伝いますから」

「あ、ありがとうございます」


 心の中を見透かしたかのように呟く先生の声に、私は慌ててお礼を伝える。


 最初の患者さんが現れたのは、それからすぐのことだった。




   *   *   *




「先生、手が腫れて痛いんです。数日前から動かせなくて……」


 片腕を押さえながら入ってきたのは、三十代ほどに見える女性。顔色が悪く、見れば左手の甲が大きく丸く腫れ、真っ赤になっている。


 グレンクロフト先生は彼女を診察台に座らせ、注意深く腕を見る。

 先生の指が真っ赤になった部分に触れると、女性は小さく悲鳴を上げた。


膿瘍のうようですね。傷口から毒が入ったのでしょう……。熱もだいぶ高い。早急な手当が必要です。……エレナさん、昨日使ったヤナギの樹皮の煎じ汁は覚えていますか?」

「はい、大丈夫です」

「あそこの棚にあるものをカップに注いでください。量は昨日ニールくんに処方した倍の分量です。カップはあちらの棚に」

「分かりました」


 私は棚に足を運び、糸でくるくると巻かれた樹皮がいくつか入った太い瓶を取り出す。中身は、琥珀色の液体。薄紙に包まれたガラス栓を外し、陶器のカップに注ぐ。


 その間に先生は、金属でできた小さなナイフのようなものを取り出して、透明な液体を付けた布で拭っている。そして、患者の元へ。


「……あの、私の体を……切るのですか?」


 先生が手に持ったナイフを目にした女性が、怯えた声を上げた。


「……そうです。これからこのメスを使って、患部を切開します。中に溜まった膿を出す必要があるためです」


 先生は優しく諭すような声で、女性に話しかける。


「そうしなければ、この膿瘍はどんどんと広がってしまって、やがて腐れ落ちます。そうなると、貴方は片手を失うことになる。そうならないための治療です。……痛いですが、我慢できますか?」

「…………わ、分かりました。耐えてみせます……」


 可哀想に、健気にそう言ってのける女性の手は小刻みに震えている。

 先生は私の手からコップを受け取り、女性に渡した。


「柳の樹皮の煎じ汁です。熱を下げ、痛みを抑える効果がある。まずはこれをゆっくり飲んで、気分を落ち着けてください。切開するのは、その後に」

「はい……。ありがとうございます……」


 女性は覚悟を決めた表情で、一口、また一口とカップに口をつける。


「良いですか、エレナさん。外科的な治療は患者の痛みを伴います。その痛みを最小限に留めるため、メスは小まめに研いで、常に最良の切れ味に保っておく必要があります」


 そういうと、先生はメスの刃の部分を親指の爪に走らせる。

 刃はくっと爪に食い込んで止まった。


「今はまだその時では無いので、エレナさんがメスを手にすることはありません。ですが、医の道を志すのであれば、いずれは避けて通れぬ道です。私の手元をよく見て、どの程度の幅を、どの程度の深さで切開すればよいのか、記憶に留めてください」

「はい、先生」


 私は、先生の言葉に深く頷く。

 外科治療――それは命を救うための最後の手段。

 医者として、その知識が有るのと無いのとでは、救える患者の数が違う。

 優れた知識を持つグレンクロフト先生と出会えた幸運に、今更ながらに感謝の思いが溢れた。


「……先生、もう大丈夫です。……お願いします」


 覚悟を決めたらしき女性が、口元を引き締めてカップを返す。

 先生は受け取ったカップを部屋の隅の洗い場に置くと、先ほどメスを拭くのに使っていた水を瓶から少量取り、自分の手に擦り付けた。


「……命の水(アクア・ヴィテ)です。錬金術の技で酒から酒精のみを取り出したもので、強い消毒作用がある。強すぎるので傷口には使えませんが、傷をつける前の肌には使えます」


 命の水(アクア・ヴィテ)を布に染み込ませた先生は、それで女性の手を丁寧に拭う。


「切開する痛みは一瞬ですが、その後膿を絞り出す時に痛みが伴います。しかし耐えられる程度の痛みですよ。あまり気負わなくとも大丈夫です」


 先生は女性の目を見ながら何でもないことのように話すと、手に取ったメスをの刃先を患部にあてがい、すっと手前に引いた。


 赤く盛り上がった膿瘍に一文字に真紅の線が走り、血が流れ出す。

 思わず目を背けたくなる光景だが、足を切断していた昨日のように心臓がばくばくと鳴るほどではない。


 メスを置き、金属のうつわを手の下に差し入れた先生は、切り口を手で押さえてどろりとした血を絞り出した。女性の顔が苦痛に歪んで、小さな声が漏れる。


「もうひと頑張りです。中に溜まった血と膿を出してしまえば、それで処置は終わりです」


 優しく声を掛ける先生に、女性は頷いて答える。

 傷口から流れ出る血はやがてさらりとしたものに変わり、彼女は歯を食いしばって処置に耐えきった。


 処置を終えた先生が、立ち上がって薬品棚に向かう。

 小さなサイズの下級魔法薬(ポーション)を取って戻ってきた先生は、その口をぱきりと折って中身を患部に流しかけた。


 蒸気のような煙が上がり、患部が再生していく。

 血が止まり、傷跡には薄皮が張り、やがて手の甲にはやや赤みを帯びた小さな腫れだけが残る。


「……これで治療は完了です。よく頑張りましたね。残った腫れは、一週間程度で引いていきますので」


 優しく呟くグレンクロフト先生に、女性はほっとした様子で微笑んだ。


「腕に小さな傷がある時、汚れた水には絶対に触れてはなりません。家に水仕事を代わってくれる人はいますか?」

「はい、娘がおります。もうすぐ十三になります」

「では、手を怪我した時は、たとえそれが小さな傷であったとしても、水仕事は娘さんに任せるようにしてください。良いですね?」


 女性はしっかりと頷くと、深々と頭を下げて礼を述べる。

 先生はそんな彼女を施療院の外まで見送り、そして中に入ってきた。 


「……そういえば、グレンクロフト先生」

「はい、何でしょう」

「どうして、施療院では患者からお金を取らないのでしょう?」


 私の問いかけに、先生は顎に手を当てて考える素振りを見せる。

 ちらりと視線をこちらに向けて、一言。


「どうしてそう思ったのです?」

「……医療にはお金が掛かるものです。死者の埋葬ではお布施を取る教会が、なぜ施療院はお金を取らずに運営しているのか、不思議に思いました」


 グレンクロフト先生の顔に、優しげな笑みが浮かんだ。


「それはですね――」


 彼が何かを言いかけたその時、入口のドアがばんと音を立てて開く。

 扉の向こうに立っていた男が、悲鳴のような声で叫んだ。


「た、大変だ、先生! 市場の大親分のアンドリュー爺さんが突然倒れた!! すぐに来てくれ!!」

「行きましょう! エレナさん、質問の答えは、患者を救った後で……!」


 先生はがたりと音を立てて椅子から立ち上がると、診療鞄を引っ掴む。


「はい!」


 私は自分が持つことになっている鞄を慌てて手に持つと、診療所を出ていく先生に大急ぎで続いた。

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