第33話 ロッホファーンの魔術の鏡
本話は、「第一部」のエピローグです。
アルヴィンがフェルクリフの貧民街を去って、二週間が過ぎた。
暦は皇帝の月に入り、長かった夏もそろそろ暑さに陰りが見え始める。
朝の日陰を吹き抜ける風の、ひんやりとした心地よさに秋の予感を感じながら、私はグレンクロフト先生の施療院へとやって来た。
朝一のお仕事は、施療院の内外のお掃除。
病院は清潔が第一なので、当然その清掃は徹底して丁寧に行うのが基本。
だけど今日は……、
「今日は朝から往診の日です。掃除は手早く済ませてしまいましょう。急がねば昼食を食べる時間が無くなってしまう」
「はい、先生」
珍しく、丁寧さよりも時間が優先される一日だ。
やがて私たちは掃除を終え、鞄を手に往診へと出発する。
数件の家々を周って患者を手当てした後、次に立ち寄った家で、先生はおもむろに口にした。
「ふむ、エレナさん。少しばかし試験といきましょう。この方の症状を診て、その治療法を考えてみて下さい」
「は、はい先生。やってみます」
突然のことに驚いたけれど、これまでずっと、先生の治療を間近で見て学んできたのだ。きっとやって見せる、先生の期待に応えて見せる――そんな思いが、胸に湧き上がる。
患者は、四十代ほどに思える身体が不自由な女の人。痩せた身体で、顔は赤い。ごほごほとと、湿った咳をしている。
私は彼女の額に手を当てて、熱を測った。
熱いけれど、熱すぎるということはない。
じっとりと汗をかいていて、身体の震えは無い。
「咳が出て、熱が出始めたのはいつからですか?」
「昨日のお昼ぐらいからだと思います。それからは食欲もなく、あまり食事も摂れていなくて……」
「お飲み物は、きちんと飲めていますか?」
「はい。お湯を沸かすのが億劫で、残っていたエールを飲んでいます」
当然、度数が低いエールのことだろう。
食事を摂れていないというのは、あまり良いことではない。
私はグレンクロフト先生の方を振り向いて、所見を述べる。
「おそらく、栄養が足りないことでの、夏風邪……だと思います。身体の震えがありませんので、これ以上熱が上がることは無いはずです。熱が上がってから間もないですので、庭常の煎じ薬で熱を下げます。また、喉や鼻の症状を抑えるために柳薄荷の煎じ薬を出します。……どうでしょうか?」
じっと黙って話を聞いていたグレンクロフト先生の顔に、笑顔が浮かぶ。
「素晴らしいです、エレナさん。咳や発熱への対処法がしっかりと身についていますね。とてもよく学べています。貴方が助手でいてくださって、とても誇らしく思いますよ」
「ありがとうございます、先生」
褒めてもらえると、やはり嬉しい。
思わずにやけそうになる顔を、必死に抑える。
「それでは、早速お薬を処方しましょう」
「はい、先生」
そんな調子で、今日の往診では先生の「試験」が何度かあった。
その都度先生の期待に答えることが出来た私は、何度も褒められる。
往診を終え、施療院へと戻る私の足取りは、自然と軽いものに。
やがて、施療院の建物が見えてきた時、建物の前に立つ人影が目に入った。
先生はすわ患者か、と駆け出しそうになったけど、向こうの彼が着ているのは王立郵便の制服。
落ち着いて速歩きに戻った先生を、駆け出した私が追い越した。
「アルヴィン様からエレナ様宛ての郵便です。配達料は先払いされていますので、受領に際してのお支払いは必要ありません」
「ありがとうございます!」
満面の笑みで分厚い封筒を受け取った私は、もうわくわくが止まらない。
しっかりした帆布で厳重に包まれたそれはきっと、私が彼に頼んでいた、「ロッホファーンの魔術の鏡」に違いない。
速歩きで追いついてきた先生が去っていく郵便の配達員さんに会釈し、施療院の鍵を開けてくれた。
「アルヴィンさんからのお手紙ですか?」
「はい先生。お手紙と、それからきっと頼んでいた本が入っていると思います!」
先生の問いに、満面の笑みで答える私。
先生もつられたように、にっこりと笑う。
「それは、良かったですね。貧民街でも市街地でも、この町では本はあまり手に入りませんからね。何の本を頼まれたのですか?」
「はい、『ロッホファーンの魔術の鏡』という物語なんです。特別な魔法を持っている主人公のリアノンが、古の塔に隠された鏡を巡って大冒険するお話なのですが、まだ全て読み終えていなくて。私、とても気になっていたんです……!」
鞄を置いて、帆布を縛っている麻紐をナイフで切りながら、私は先生に答えた。
「物語ですか、それは良いものですね。物語は人を幸せな気分にしてくれます。是非楽しんでお読みになってください」
「はい先生! ありがとうございます!」
解いた帆布の中から出てきたものは、果たして。
「ああっ……! 待ちわびた一冊……!」
間違いなく、読める日を待ち望んだ「ロッホファーンの魔術の鏡」だった。
* * *
次の日、私は施療院でのお仕事をお休みにして、家の窓際に椅子を置いて、ひたすらに本を読み進めた。
主人公のリアノンは、特別な魔法が使える魔法使いの少女。彼女は領主の息子である青年、アランの頼みを聞き、古の塔のダンジョンを踏破して魔術の鏡を手に入れる。
けれど、その鏡は使用者の想いに応えて、良い未来も悪い未来も関係なく引き寄せる、危険な代物だった。
領主であるアランの父親は当初はその鏡を領地の為に使うが、次第に鏡を奪われるのではないかとの不安に苛まれるようになっていく。そしてついに鏡はその不安を引き寄せてしまい、彼は謎の結社、黒霧の使徒に鏡と命を奪われてしまった。
立ち去る際に黒霧の使徒が残した言葉によると、彼らの望みは鏡を使って古代の魔神を呼び出し、アードヴェイル島全体を支配すること。
リアノンは結社の陰謀を阻止するため、アランと連れ立って鏡を取り返す為の冒険に出ることになる。
「香草湯、ここに置いておきますね」
「ありがとう、リリィ」
「エレナさんが夢中になるなんて、きっと素敵な物語なんですね」
「そうね、リリィ。でも、不思議なのよ……。昔途中まで読んだ時は、もっとわくわくしながら楽しめたと思うんだけど……」
古き森、崩れかけの修道院、湖の底に沈む遺跡……リアノンとアランは様々な場面で黒霧の使徒との死闘を繰り広げ、ついに鏡を取り戻す。
その鏡が映し出したのは、リアノンとアランの幸せそうな結婚式。
だけど、貴族のアランと平民のリアノンでは到底身分が釣り合わない。
身分の違いから禁断の恋と諦めていた二人は、鏡が写した未来に心を捕らわれてしまう。
一晩が明けた二人は、アランが身に付けていた父の形見に心を取り戻し、鏡を魔の山の火口に封じることを決意した。
「…………禁断の恋と言っても、アランが身分を捨てるか、リアノンが冒険爵に叙されれば叶うのではないのかしら? 事実私のお母さまは、お父さまの求婚に応えるために冒険爵になったのだし……」
二人は、鏡を手に入れようとする黒霧の使徒の残党の襲撃を掻い潜りながら、ついに魔の山に到着する。
そこで待ち受けていた黒霧の使徒の首領を撃破した二人は、ついに鏡を火口へと投じた。
最後の瞬間に鏡が映していたのは、男の子を抱いて幸せそうに寄り添う、リアノンとアランの姿。
鏡が写した未来は、果たして現実のものになるのだろうか。
それはもう、誰にも分からない。
鏡が失われた今、未来を作っていくのは自分たちの力なのだから。
…………最後の項まで読み終えた私は、余韻の中でぱたりと本を閉じた。
心の中にあるのは、幸せな読後感と少しばかりのもやもやした想い。
貴族の娘だった頃、ハートブリッジの館でこの本を読んでいた時に感じたような情熱は、もう心の中には見出だせなかった。
ああ……。この物語はきっと、世間知らずの貴族の娘だったからこそ、わくわくと心を躍らせて楽しめる物語だったのだ。
私はもう、子どもじゃない。
世の中の悲しさも、苦しさも、そして辛さも。
この目で見て、心で感じて、たくさんの思いを経験し、そして乗り越えてきた。
私はもう、ただ守られるばかりのか弱い令嬢じゃない。
自分の足で立って歩く、一人の女なんだ。
私は本を置いて立ち上がり、窓辺へと進み出る。
窓の外には、まるで私の心を祝福するかのように、どこまでも青い空が広がっている。
貧民街を生きる日常こそが、私にとっての冒険。
私は、自分の物語を生きる準備が出来ている。
~了~
「第一部 没落令嬢の生きる道」はここまでです。
【お知らせ】
以降の更新につきましては、不定期更新という形に変更させて頂きます。1章分が書き上がったらその都度、5話分を水曜~日曜に連続更新、という形になるかと思います。
(本作をブクマして頂いている方は、更新通知の方に入れて頂くことで通知が届くと思います)
第二部も第一部と同様、六章構成の全33話を予定しております。
プロットは完結まで作ってありますので、時間は掛かっても完結を目指して更新を続けていくつもりです。
どうぞ楽しみにお待ち頂けましたら幸いです。




