第32話 別れ
「それで、エレナ。昨日のことは……考え直してくれたかい?」
「アルヴィン、そのことなのだけれど。少し私の話を聞いてほしいの」
施療院の病室で、私はアルヴィンと二人きり。
グレンクロフト先生が気を使ってくれたお陰だ。
「話……?」
「ええ。私がハートブリッジを逃げ出して、このフェルクリフの町にたどり着くまでの話よ」
「……聞かせて欲しい」
ジェラルドに、リサ、そしてハンナ。
私は、私を守った使用人たちの献身を、アルヴィンに話す。
私とともに来なければ命を失わずに済んだはずの、彼らを襲った不幸。
そして……その最期。
アルヴィンが悪いわけではない。だけど、私が生き延びるために犠牲となった彼らのことを、アルヴィンには、知っておいて欲しかった。
「……そうして、ジェラルドが死してなお馬を御して、私をこの町へと運んでくれたの。リサとハンナはきっと……埋葬すらされること無く、道端に打ち捨てられたと思う」
「そう……だったのか……。エレナ、君は本当に辛い思いを……。それに、我が父のしでかしたことで、彼らには本当に惨いことをしてしまった」
アルヴィンは声を震わせて、瞳に浮かんだ涙を拭う。
「ジェラルドの葬礼を終えて、グレンクロフト先生の医術の才をこの目で見た時、私は誓った。私は、私のために失われた以上の数の命を救ってみせるって。アルヴィン、それは、私が貴族に戻ったらできなくなることなのよ。私はこの貧民街で、グレンクロフト先生に師事して医の道を進みたい。それでは駄目かしら……?」
振り返って、病室の扉に視線を向けるアルヴィン。
その扉の向こうでは、今もグレンクロフト先生が、調薬の作業をしている。
「……医の道……か。だけど、使用人たちが守ったのは貴族としてのエレナなんじゃないか? 彼らの献身に答えるためにも、君はアルテヴェール家を再興するべきではないのかい……?」
「いいえ、アルヴィン。私を送り出す時、母が言っていたの。家の復興なんて考えなくて良いって、自由に生きろって。……使用人たちも、聞いていたはずよ」
アルヴィンは、小さく首を横に振った。
じっと黙って、治ったばかりの肩の傷口を、服の上から触る。
ややあって、口を開いた。
「……エレナ、僕は領地を出発した時、君を見つけることが出来さえすれば、全てがうまくいくと思っていた。君は爵位を取り戻し、僕は愛する君とずっと一緒にいられると……そう思っていた。エレナ、一つだけ聞かせてほしい。君は今でも、僕のことを愛しているかい……?」
……難しい質問だ。
私がまだ貴族だった時、結婚というのは約束された未来だった。
だから私は、そこには女としての幸せが約束されているのだと信じた。
アルヴィンの容姿は、一緒にいると心がときめくほどに素敵なものだったし、彼の優しさもまた、一緒にいると心が安らぐ心地の良いものだったからだ。
私は、それを愛だと思っていた。
けれど、今にして思えば。
それは本当に愛と呼べるものだったのだろうか。
あれは、魔法の才も無く、内政の知識もない平凡な私が。
ハートブリッジの未来を背負わされた私が。
それを彼に託すことができるという、安心だったのではないだろうか。
黙り込んだ私を見て、アルヴィンがふっと微笑む。
「……分かった。もう一つ、聞かせてほしい。昨日君が口にした、僕との婚約の解消。僕がそれを受け入れた場合でも、それでも君は……貴族に戻ろうとは思わないのかい? 僕は証拠の全てを、手にしている。馬を走らせて王都に辿り着いて、国王陛下の星室裁判所にこの証拠を提出すれば……それだけで、君を取り巻く環境は全てが変わる」
彼は、腰に着けていた小さな鞄から、帆布に包まれて麻紐で巻かれた、小さな塊を取り出してみせた。
「これは僕の贖罪だ。……君が一番苦しかった時、僕は君とともにいることが出来なかった。だから、父が犯した罪を……僕が償うだけ。僕との結婚は対価ではない。それでも、君はアルテヴェール家の再興を望まないのかい?」
私は彼の目を見る。
翡翠色の凛とした双眸が、真剣な眼差しで、私を見返している。
私は、はっきりと声に出して伝えた。
「ええ、アルヴィン。……私の居場所は、この貧民街。私が貴族に戻ることは、もう無いわ」
アルヴィンが、小さく息を吐いた。
椅子にもたれ掛かって、天を見上げる。
「君の気持ちは、よく分かった、エレナ。いつの間にか……僕が思っていたよりずっと大人になっていたんだね。…………正直に言おう。父を、自分の家を告発する必要がなくなって、僕はほっとしてる。君のためなら全ての障害を薙ぎ払う覚悟があるつもりだったけれど、それでも不安であることには変わりなかったんだ」
「アルヴィン……」
返すべき言葉が出てこない。
私は、家を失うことの恐ろしさをよく知っている。
彼の家族やその使用人たちに、同じ目に遭って欲しいとは思わない。
「ありがとう、エレナ。僕も吹っ切れたよ。そうだ、最後にもう一つ尋ねておきたいんだけど……。もし、僕が何も考えずに君を追い掛けていて、君がこの町に流れ着いた直後に再開出来ていたなら。……僕らには違う未来があったと思うかい?」
アルヴィンはそう訊ねると、静かな目つきで私を見つめる。
「アルヴィン、もしもの話は意味がないわ。だけど……。もし、あの時あなたが共にいて、共に悲しんでくれていたなら……。少なくとも、あなたの隣に居た私は、そのことを嬉しく思ったはずよ。でも同時に、生きていく術の無かった私は、きっとあなたに頼りきりになってしまったと思う。それは本当に、健全なことかしら……?」
眉尻を下げて笑い顔を作った彼は、首を横に振った。
「エレナ、昔の君より、今の君の方がずっと素敵だ。やりたいことがあって、目的に向かって真っ直ぐ進んでいる。今の君は、本当に眩しいよ」
「ありがとう、アルヴィン」
彼の言葉に、私はにっこりと微笑んだ。
* * *
やがて、アルヴィンの帰る日がやって来た。
私は、今日ばかりは施療院のお仕事を休んで、その見送りに来ている。
私とアルヴィンが連れ立って歩いているのを目にして、貧民街の人たちはいい噂話の種が出来たと喜んでいるかもしれない。
「それにしても、この町の貧民街が、今やエレナの帰る場所か……。妬けてしまうよ、本当に」
「人々の心が温かくて、いい場所よ。いろいろと学ぶことも多いし」
「そうだろうね。グレンクロフト先生も、トマスくんたちも、みないい人だ」
何気ない会話を交わしながら、やがて私たちは、貧民街の端っこへとやって来た。
密集した灰色の小屋が建ち並び、木でできた柵が貧民街の周囲を囲んでいる。街の外には斜面に沿って畑が広がって、収穫を終えた小麦畑が黄金色に輝く。
「……エレナ、僕に何か……出来ることはあるかい? 父がしでかした事のせめてもの償いだ。金銭的な補助でも、何らかの権利の譲渡でも、君のためになるものを、何か補償として差し出させてほしい」
立ち止まったアルヴィンが、私の方を振り返って呟いた。
「いいえ、アルヴィン。私はもう、私の足で立って歩くことが出来る。助けてもらわなくても、大丈夫よ。それに、償いならもうしてくれたじゃない」
「……?」
私の答えに、アルヴィンは少し考えた素振りを見せたけど、すぐに降参したように肩をすくめて、首を傾げる。
「あなたは、馬車に轢かれそうになった貧民街の子どもを、その身を呈して助けたわ。あなたのお父様の為に失われた命もあったけれど、あなたは一人の命を救ったの。それは素晴らしいことで、立派に償いと言えることよ」
アルヴィンの顔に、苦笑が広がる。
その顔のまま私を見つめて、肩をすくめた。
「わかった、そういうことにしておこう。でも、それだけじゃ僕の気が収まらない。そうだな、何か不自由している事があれば、一つだけ、僕に頼み事をしてくれ。僕の名誉に懸けて、必ず叶えてみせる」
「一つだけ……そうね……」
今度は、私が考え込む番だ。
アルヴィンがこう言い出したらきっと、私が願いを伝えるまで帰らないだろう。
そういえば、と私は思い出す。
十六歳の誕生日を迎えるまでにどうしてもやっておきたかったことが、一つ出来ないままになっている。
「……『ロッホファーンの魔術の鏡』、という小説を知ってる?」
「ロッホファーン……? いや、すまない。文学には疎くて……」
頭を掻く彼に、私は伝えた。
「その小説を私、領地から逃げ出すことになったために読み終えることが出来なかったの。続きが気になっているのよ。もしどこかの町で見かけることがあれば、グレンクロフト先生の施療院まで送ってほしい。それが、私の頼みよ」
アルヴィンは大きく頷く。
とても真面目くさった顔をして、胸に手を当てた。
「分かった。『ロッホファーンの魔術の鏡』だね。我が名誉に懸けて、必ずや入手し、お送りさせて頂く。……楽しみに、待っていてほしい」
「ふふ、ありがとう、アルヴィン……!」
方や、ローズヴァリ伯爵家の次男で、将来を嘱望されているであろう青年。
方や、貧民街の施療院の助手で、医の道を歩んでいけたらと願う私。
もしかしたら、ここで別れたらもう、二度と会うことはできないかも知れない。
だけど。
別れの言葉を交わす私たちの顔には、その瞳を涙で潤ませつつも、晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
第五章 「故国からの使者」はここまでです
次回は、第一部のエピローグをお送りします。




