第19話 壁の使いみち
「はぁ……どうしたものかなぁ……」
施療院への帰り道をとぼとぼと歩きながら、そんな声が漏れる。
メアリの絵は申し分なく素晴らしい。それは誰が見ても、きっと間違いのないこと。だけど……
「メアリさんに足りないのはたぶん、自信……なんだよね……」
どうにも、メアリは自分の絵の才覚に自信を持つことができていないように思えた。
『描き終えて一週間もすれば、もうあちこちが気になって直視できない』――そんな彼女の言葉が、脳裏に浮かぶ。
一体どうすれば、メアリは自分の絵に自信を持つことができるのだろう。
あれこれと考えを巡らせながら通りを歩いていると、突然、通りの隅から大きな声が聞こえてきた。
「こらぁっ! 家の前に落書きなんてしないで頂戴っ!!」
「ひえっ……」
「ごっ、ごめんなさいっ……!」
見れば、土に覆われた裏路地に石で落書きをしていた子供たちが、頭に薄布を巻いた女の人に叱られている。
「あら……? これってもしかして、シャルコット通りのダンカン爺さんの似顔絵かしら?」
「う、うん。ジョンが描いたんだ。僕じゃないよ?」
「ああっ! ばらすなんてひどいやウェリン!」
……友情が壊れる瞬間を目撃してしまったかも。
私は、子供たちの様子をはらはらしながら見守る。けれど、女の人は意外なことに、二人の顔と路上の落書きを交互に見るとにっこりと破顔した。
「あっははは! なかなか上手いじゃないの! 偏屈なダンカン爺さんが怒ってる顔そっくりだわ。その絵の上手さに免じて怒らないでいてあげるけど、絵が描きたいなら迷惑の掛からない広場にでも描いてきな」
「うん、わかった。ごめんなさいブラウシェンおばさん」
「ごめんなさい……」
二人の男の子は、石を持ったまましょんぼりと歩いていく。
その姿を見送りながら、女の人がぼそりと呟いた。
「それにしても……よく描けてるわねぇ。消すのが勿体なく思えてくるほどだし、このままにしておきましょう。きっと通りかかった誰かがダンカン爺さんの顔だって気付いて吹き出すでしょうから」
…………こ、これだわ……!
扉を開けて家の中へと戻っていく女性の姿を眺めながら、私は自分の思い付きにドキドキが止まらない。
これならきっと、メアリに絵の自信をつけてもらうことが出来るはず……!
* * *
「ま、町の中に、絵を描くんですか!?」
「うん! そう! 通りの石畳の隅っこだとか、町中の壁とか、通りに面した城壁とか! とにかくあちこちに、メアリさんが小さな絵を描いてみるの! もちろん、メアリさんが好きだっていう『象徴的な意味合いを持った絵』よ!」
驚いた様子で問い返すメアリに、私は自分の思い付きを披露する。
「えええ、そんなことして、きっとバレたら怒られるわよ?」
「だから覆面を付けて、見つからないようにこっそりと描くの! 朝早くとか、日が沈んだ後に! ……もしバレたら、心から謝りましょう!」
「……ま、バレたら謝って絵の具を洗い落とせば許してもらえるか。にしても、日が沈んだ後は怖いわね……。ここは貧民街なのよ?」
ローリの指摘に、私はそうだったと思い至る。
確かに、ここは貧民街。日が暮れた後でも安全に通りを歩けた、ハートブリッジの街とは違うのだ。
「……なら、朝早くにしましょう……! こっそりと続けていけば、きっと噂になるわ。誰が描いたか分からない、謎の絵だって。噂が立てば、メアリさんは自分の絵の評判を知ることが出来る! きっと良い評判よ? だってメアリさんの絵って凄いんだもの」
「そうね。それは間違いないかも」
「あうぅ……、そ、そうでしょうか……」
この二人の反応だと、ローリは乗り気みたい。
ローリは迷い顔のメアリに顔を向けて、説得の言葉を並べる。
「きっとそうよ、メアリ。初めて絵を見たエレナさんだって凄いって褒めてくれたくらいだもの。エレナさんの言う通り、あなたに必要なのは自信なのよ。『誰が描いたのか分からない絵』を街の中にたくさん描いて、その絵が評判になれば、貴方の自信にも繋がるはず。私は……このお話、悪くないって思う」
「朝にやるなら、早く寝て早起きする必要があります。メアリさん、やってみるおつもりはありますか?」
「…………」
この表情なら、もう一息かしら……?
「明日から私も早起きして、お供させていただきますので……!」
「わ、わかった……。エレナさんも一緒に来てくれるのなら、まずはちょっとだけ、やってみる。でも、よくない評判が立ったら、すぐに止める。それでいい……?」
「はい!」
「決まりね……!」
まだ少し不安げな顔のメアリを前に、私とローリはにっこりと笑って見つめ合う。
大丈夫。きっとうまくいって、メアリの自信に繋がるはずだ。
――――こうして私たちは翌朝から、街角の路上で芸術を披露することにした。
* * *
「あわわっ、メ、メアリ急いで! これ以上日が昇ったら人から丸見えになっちゃう!」
「そ、そんなこと言っても、あっ、緑の絵の具取って! 明るい方!」
「メアリさん、もう一息ですよね! 頑張ってください!!」
翌日の朝早く、貧民街の片隅で。
私たちの大慌ての囁きが、夜明けの空に消えていく。
メアリは前の日のうちに選んであった、「絵が描けそうな場所」の一箇所――人の住んでいない廃墟の壁に、大急ぎで筆や刷毛を走らせていた。
私は壁に四角い絵を描くための木枠を手で持って押さえ、ローリは筆や絵の具の入った木箱を手に立っている。
三人とも、布を切って作った覆面で顔を覆って、見るからに怪しい格好。
「あともうちょっと……! ここに緑の星を描いたら完成っ……! で、できました! 完成ですっ!!」
「よ、よくやったわメアリっ! さっ、逃げるわよっ!!」
「あっ、お二人とも待ってください……!」
私は足早に立ち去ろうとする二人を、素早く引き止める。
「あの……最初に絵を見つけた人の反応、見てみたくありませんか?」
「そ、それは……、ちょっとだけ……見てみたいです」
「私も見てみたいわ。けちを付ける人なんかがいたらぶん殴ってやるんだから」
「ローリさん、それだと私たちの仕業だってバレちゃいますよ……」
結局、私たちは少し離れた裏通りの建物の影から、描き終えた絵を見守ることになった。もちろん、怪しいので覆面は外してある。
やがて、通りの向こうから一人の男が歩いてきた。
服装から考えて、おそらく鉱山で働く労働者のはずだ。
彼はそのまますたすたと歩いて、絵の描かれた壁に近づいてくる。
「ああ……あの方が私の絵を見てくれる、初めての人なんですね……」
「一体どんな反応をするか、気になるわね……!」
私は祈る。どうか彼が変なことを言ったりはせず、素直に感動してくれますように。
男はそのまま黙々と歩き、やがて絵の描かれた壁のすぐ前に通りかかった。
私たちの緊張は頂点に達して、どきどきと鳴る鼓動が耳に聞こえてくるほど。
…………男は、そのまま何も気づかずに通り過ぎ、通りの反対側へと歩いていった。
「ちょっと! どこに目ぇ付けて歩いてんのよあの男は!!」
「ま、まぁそんなこともありますよ。普通、壁にいきなり絵があるなんて思いませんし……」
「あなたがやろうって言い出したことよ! 気付いてくれなきゃ困るのよ! メアリが!」
荒い口調で怒り出したローリを、慌ててなだめる。
ローリはまだ文句を言いたいようだったけど、
「二人とも、静かに……! 次の人が来たわ!」
メアリの鋭い呟きに、口を閉じた。
次に通りの向こう側から歩いてきたのは、三人組の男たち。年配の男が二人と、若い男が一人。
服装と年齢からして、職場に向かう途中の職人のように見える。
三人組はそのまますたすたと歩いて、絵の描かれた壁の前を……通り過ぎなかった。
「おや、デイヴィッド。こんなところにこんな絵があったかな?」
「いんやリック、昨晩には無かったと思うねぇ」
「何かの興行でも知らせる絵でしょうか? それにしても貴麗な絵ですねぇ」
男の言葉に、ローリがぎゅっと拳を握りしめて喜びの表情。
「興行にしては変だなぁ。なぁんも文字が書いてねぇや。まぁ書いてても俺には読めねぇけどよぉ」
「朝霧のような青い色とピンクの濃淡の上に、色とりどりの星々が描かれていますね。何と言うか、明るい兆しを感じるような、そんな絵に感じます」
「おぉ、流石ヒューぼっちゃんは博識だぁ。でも言われてみると、確かになんだか明るい気持ちになってくる絵だぁね」
彼らの会話に、メアリがぱぁっと顔を輝かせた。
今日の絵の題材は、「希望」。
メアリが絵に込めた通りの気持ちが、見る人に伝わっている。
「何だか今日も仕事を頑張る意欲が湧いてきましたよ。それじゃあ行きましょう、依頼の毛織物を、今日中に仕上げなければ」
「おぉ! 俺も何だか今日はいつもより仕事を頑張れる気がしてきたなぁ」
和やかに去っていく男たちを見送ったあと、私たちは手を叩いて喜びあった。