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第18話 壁

 ローリの先導で貧民街を進む私たちは、やがてフェルクリフの町の城壁に近い場所にある、集合住宅へとやってきた。三階建ての建物で、一階は石造り。二階より上は木と漆喰を組み合わせた作りになっている。


 貧民街の中の建物だけれど、見た目はハートブリッジの市街にあった建物と比べても遜色ない、かなり立派なもの。


「わぁぁ……! 素敵なお家に住んでいらっしゃるんですね……!」

「あははは! ま、外から見たらそう思うわよね」

「あの……屋根裏、なんです。私たちがお借りしているの。」

「上ったり下りたりはかなり大変よ! ま、そのお陰で家賃が安いんだけどね」


 彼女たちの話に、私は納得する。屋根裏、ということは夏になるときっとすごく暑いのだ。私はハートブリッジの邸宅の屋根裏で遊んだことを思い出した。


「そ、そうなのですね。そんなところでお怪我をされて、歩いて施療院までお越しになるのはすごく大変だったでしょう?」

「たどり着けば、治療して頂けると思っていましたから。包帯を巻けば歩くのに支障はありませんでしたし……」


 そんな彼女が施療院にたどり着いて、留守だと知った時の絶望はどれほどだっただろう。彼女を待たせてしまったこととが今更のように申し訳なくなって、私は彼女に謝罪した。


 部屋の中に入ると、そこにはいかにも芸術家の工房アトリエと言った空間が広がっていた。数多く置かれた画布キャンバスや木枠、そして乱雑に置かれた絵の数々。部屋の中央には大きな画布キャンバスが設置され、その横の丸机には筆などの画材が置かれている。


「わぁぁ……! 凄い! 芸術家の方の工房みたいでわくわくします……!」

「みたい、じゃなくて芸術家なのよ、メアリは!」


 私の言葉に、ローリが呆れたような声で突っ込みを入れる。


 二人に続いて部屋の中に入っていくと、中央の大きな画布キャンバスに描かれた、描いている途中の絵が目に入った。


「……!!? すっ、凄い……! えっ?? これを、メアリさんが……!?」

「はい。ありがとうございます、まだ描いている途中なのですが……」


 キャンバスに描かれているのは、雄大な景色を背景に建つ堂々としたお城。塗られているのはまだ背景の部分だけで、お城の方は簡単な色しか付けられていないけれど、この背景だけでも卓越した技術と巧みな筆運びの才が十分に伺える。


「ローリさんが絶賛していた理由が分かります……! すっごく綺麗でまるで本物の山々が目の前にあるみたい!」

「そうでしょそうでしょ! やっぱあなた見る目があるわね。今香草湯(ティザン)を入れてあげる。メアリはこの人、えっと……」

「エレナさんよ」

「ありがと。エレナさんに色んな絵を見せてあげなよ!」


 メアリはローリの提案に優しく頷くと、顔に少しだけ恥じらいの色を乗せながら、部屋の隅に私を案内した。


「このあたりの絵は、風景画とか、人物画とか……。昔描いたものもあって、ちょっとお見せするのは恥ずかしいのだけど……」


 風光明媚な川の絵に、木々を描いた森の絵。晴れやかな笑顔を浮かべた男の絵に、むっすりとした不機嫌そうな女の絵。彼女が見せる絵はどれもものすごく生き生きとしていて、まるでその情景が目の前に実際に存在しているのではと錯覚するほどの、引き込まれそうな魅力を放っている。


 ハートブリッジの邸宅にも、色々な絵が飾られてはいた。

 だけど、そのどれもが威厳や忍耐を体現したかのような灰色の絵で、こんなにも明るくて表情豊かな絵画はどこにも無かった。


「メアリさん……! すごいわ……! 私、絵でこんなにも心揺り動かされるのなんて初めてよ! 絵の世界がこんなにも魅力的だなんて、私知らなかった……!」

「あ、ありがとう…… エレナさん。すごく嬉しいわ……」

「こんなにも素敵な絵を描かれるメアリさんが描くお城の絵。完成したらどれだけ雄大で美しい絵になるのかとっても楽しみね……!」


 私は彼女の絵の素晴らしさに感動しながら、そして今彼女が描いている絵の完成に思いを馳せながら、にっこりと微笑む。


「あうぅ…… あ、あんまり期待しないで……」


 メアリは小さくそう呟くと、手で顔を隠してしゃがみ込んでしまった。

 その時、部屋の扉がとんとんと叩かれる。


「ごめんください、画商のニルです」


 扉の向こうから聞こえるくぐもった声に、メアリはすっくと立ち上がり扉の方へと向かう。その際、照れくさそうな顔を私に向けてくるのが可愛らしかった。




   *   *   *




「そうですか、エレナさんは実に運が良い。メアリさんが工房アトリエに人を招くなんて、滅多にあることではありませんぞ」


 ニルさん――口ひげを生やした恰幅の良い画商の男性が、香草湯(ティザン)を飲みながら陽気に笑う。


「まー、招いたのはメアリじゃなくて私なんだけどね」

「ははは、なるほど、ローリさんでしたか。……して、エレナさんの目に、メアリさんの絵はどう映りましたか?」

「風景画も人物画もすっごく生き生きしていて、素晴らしい才覚をお持ちだと感じました。私も絵を見る機会はいくらかあったと思いますが、彼女の絵ほど素晴らしい絵は記憶にありません」


 ニルさんの問いかけに、私は感じたままの思いを言葉に乗せる。

 メアリは嬉しさと恥ずかしさが入り混じったような表情だ。

 ニルさんは腕を組んで、うんうんと満足げに微笑んだ。


「やはり、そう思われましたか。メアリさん、お聞きになった通り、これが普通の方の、メアリさんの絵に対する評価なのです」

「はい……。でも……」


 メアリは褒め言葉を素直に受け止められずに居るのか、少し寂しげな声を出す。


「……メアリは完璧主義すぎて、自分の絵の凄さを自分で認めることができずにいるのよ……」


 ローリが困ったような声で呟いた。

 こんなに凄いのに、認めることができない……?


「メアリさんはこんなに素晴らしい絵を描かれるのに、ご自分に自信がなく、絵に署名サインを入れて頂けないのです。彼女から買い取った絵は、全て無名の画家の絵として売らざるを得ません。当然、買い取りの金額も安いものになってしまう」


 ニルさんが残念そうな顔で口にする。


「わ、私なんてまだまだ……。だって描き終えて一週間もすれば、もうあちこちが気になって直視できないんですもの……。名前を出して売った絵が酷評されたら、もう絵でお金を稼ぐことができなくなっちゃう……」

「そんなことはないと思うのですがねぇ……」


 儚げな声を出すメアリに、ニルさんが肩をすくめて首を振った。

 その顔には口惜しげな表情が浮かかび、メアリの絵を安売りせざるを得ないことをもどかしく思っている様子が伺える。


「……そういえば、エレナさん。不思議な図形で構成されたメアリさんの絵をご覧になりましたか?」


 しばしの沈黙の後、ニルさんがふと思い出したふうに話を変えた。


「いえ、私はまだ拝見できていません」

「それでは、ぜひご覧になられると良い。どうにも抽象的なものが主題モチーフになっているので、私は『抽象画』と呼んでいますが、あれは本当に素晴らしいものです」

「まぁ……! それって、メアリさんが施療院で仰っていた『象徴的な意味合いを持った絵』のことですよね? 私、とっても興味があります!」


 髭を撫でながら温かい表情で話すニルさんの言葉に、私は大いに関心を掻き立てられる。


「……まぁ、そちらは売ることすら許して頂けないのですが、私はそれらの絵こそが、メアリさんの最高傑作だと考えています。他の誰にも描くことのできない、まさにメアリさんの絵の世界そのものです」

「うぅ……。だって……あんなの、何が描いてあるかもわからないものですもの……。描くのが楽しいだけのお目汚しです……」


 メアリは自信なさげに首を振り、悲しそうにそう呟いた。


「メアリさん、その絵、私に見せて頂くことはできますか?」

「……うぅぅ。……つたなくても、笑わないでくださいね?」


 頼み込む私に、メアリは迷ったような素振りを見せ、やがてやがて少しの恥じらいを顔に乗せて立ち上がる。

 案内する彼女に続いて、部屋の一角へと進んだそこには……。


「わぁぁぁ……!! 凄い……!」


 丸や四角といった図形、それ以上に複雑な図形。様々に引かれた線や点。

 多様な色彩で表現された、不思議な世界が広がっていた。


「あっ……! これは、もしかして『喜び』ですか? 施療院で仰っていた!」

「うん、そうなの。そしてこっちは『悲しみ』で、こっちは『怒り』」


 オレンジとピンクで表現された『喜び』に、緑がかった薄い青色で表現された『悲しみ』、そして赤と黒と緑で表現された『怒り』。


 画布キャンバスの上を覆うのは単なる絵の具の集まりに過ぎないはずなのに、それらの絵からは不思議と、題材の通りの感情が浮かび上がってくるように感じられる。

 私は卓越した彼女の画才に、改めて深い感銘を受けた。


「これは『楽しさ』で、あそこにあるのは『戸惑い』。日常の中で感じる小さな感情を絵にするのは、本当に楽しいの」


 並んだ画布キャンバスの中にはいずれも、豊かな色彩で表された、色とりどりの世界が広がっている。彼女が紹介しながら見せてくれる絵は一つとして同じものはなく、どれも吸い込まれそうな魅力にあふれている。


「……これは?」


 無造作に置かれた、たくさんの絵。その中の一枚に、視線が引き寄せられた。

 茶色がかった黒に塗りつぶされた画布キャンバスの中で、よこしまさを感じるあかい三日月が笑っている。


「それは…………」

「それは、『壁』よ。」


 言い淀んだメアリの代わりに、後ろに来ていたローリが答えた。


「『壁』、ですか?」

「そう。メアリにとっての、壁。彼女がどうしても超えることができずにいる、『壁』なの」


 ローリは憂いを帯びた声でそう呟くと、悲しげに手で顔を覆ってしまったメアリの肩に、優しく手を伸ばす。


「おや、これは……。先週拝見させて頂いた時から、あまり進んでいないようですな……」


 部屋の中央の大きな画布キャンバスの前に立ったニルさんが、戸惑った声を上げるのが聞こえた。


「お金を貰って絵を描くのは……私にとって大きな壁なんです……。受け取った報酬に見合わない絵しか描けなかったらと思うと、ニルさんを満足させられなかったらどうしようって思うと、どうしても描けなくなっちゃうんです……」


 顔を覆ったメアリは、声に悲痛な響きを込めてそう呟いた。

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