第13話 歌の手がかり
「ヘレンはね……。ママの……ママの歌が、思い出せなくなっちゃったの……」
彼女の目が潤み、唇が震える。
「ママの歌?」
「うん。ママが……ママがいつも歌ってくれてた子守り歌が思い出せなくなっちゃって……夜になるとさびしくて……泣いちゃうの……」
そう言うと、彼女は膝に顔を埋めて、肩を震わせ始めた。
私は彼女の背中に手を回して、頭を撫でる。
「わたしももう子どもじゃないから、ママが死んじゃったのは仕方ないって分かってる……。だけど、ママの歌だけは……忘れたくなかった……」
胸がぐっと締め付けられて、じわりと涙が浮かんだ。
貧民街には、貧困の中で命を落とす者が幾人も居る。この二ヶ月の間、グレンクロフト先生とともに救えぬ命に立ち会ったことも一度や二度では無かった。
彼女に子守り歌を聞かせていた母親も、きっとそんな不幸に襲われたのだ。
「どんな歌だったか、少しでも覚えていることはある……? どんな言葉が含まれていたかだとか、どんな旋律の歌だったかとか。もし覚えていることがあるなら、お姉さんに聞かせてみて……!」
ヘレンは顔を上げ、ぐしぐしと涙を拭う。口をぎゅっと引き結んで、じっと考える。
「……『月がほほえむ』って言葉ではじまる歌。川のこととか、森のこととか、船のこととか歌ってたと思う……。ちょっと悲しい感じだけど、でも安心できる歌。……だけど、もうそれしかおぼえてない…………」
声は途切れ、彼女の瞳には再びじわりと涙が浮かんだ。
私は、彼女をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫よ、ヘレンちゃん。私が、その歌をきっと見つけてみせる。約束よ! 歌を知っている人を探して、きっとまたお母さんの歌を思い出せるように手伝ってあげるから……!」
腕の中でこくこくと頷く彼女の頬を、つぅと涙がつたう。
私は、彼女が忘れてしまった母の子守り歌――形見のようにさえ感じられるその歌を、必ず見つけ出すことを心に誓った。
* * *
子どもたちの診察が終わり、私はグレンクロフト先生と二人、施療院への帰路を進む。空には少しだけ雲が出てきて、太陽が陰って肌寒い。
「……あの少女には、何があったのです?」
心配そうに問いかける先生に、私は経緯を話した。
彼女が、お母さんが歌っていた子守り歌を忘れてしまったこと。
寂しくて辛くて、毎晩泣いていること。
それで、他の子たちから避けられていること。
彼女から聞いた、「月がほほえむ」で始まる、悲しげだけど安心できる歌。
修道女のマリアさんに尋ねても分からないと言われたことも含めて、私は見聞きした全てを先生に伝えた。
「……月がほほえむ、ですか。生憎ながら、私にもちょっと思い当たる歌がありません。川や森、そして船のことが歌われていたのですよね?」
「はい。彼女はそう言っていました」
「ふむ……」
グレンクロフト先生は腕組みをして、首を少し傾けて思考に浸る。
「このあたりにも川はありますが、山の中を流れる小川や急流しかありませんので、船に乗ることはありません。荒れ地の山ばかりなので森もありませんし……。もしかしたらですが、彼女の母親はこの町の出身ではなく、低地の方の出身なのかも知れません」
「ありがとうございます、先生。僅かな単語からそれだけのことが分かるなんて、凄いです」
私の言葉に、微笑みを返す先生。
でも、ヘレンのお母さまがもし低地の出身なら、歌を知る人を見つけるのは簡単ではない気がする。フェルクリフの町は国境沿いの山岳地帯。低地出身の人は、あまり住んでいないはずだ。
「そうですね……。市場で広く人を当たってみるか、低地から燻製魚を売りに来る行商人に尋ねれば、何か手がかりとなるものが見つかるかも知れません。今日の午後は施療院のお仕事は休んで、聞き込みに行くと良いですよ、エレナさん」
「はい、先生! ありがとうございます!」
先生は、私がお仕事を休んででも歌を探しに行くことを許してくれた。
やっぱり先生も、あの少女のことを気にかけているのだ。
その心の優しさに、嬉しさが込み上げる。
「それじゃあ、早く施療院に戻りましょう! 私、待ちきれません!」
途端に足早に進み始めた私に、グレンクロフト先生は苦笑しながら歩幅を合わせてくれた。
* * *
施療院に戻って昼食を食べた私は、市場へとやってきていた。
もちろん、目的はあの少女、ヘレンの母の歌の手がかりを探し出すため。
……だけど。
「『月がほほえむ』……? うーん……。悪いが、ちょっと俺には聞き覚えが無ぇなぁ……」
「そうですか…… お忙しいところをありがとうございました」
「なぁに、構わんさ。そういやアンタ、施療院の先生の助手だろ! 二ヶ月前にアンドリュー爺さんを救った! 感謝してるぜ、ありがとよ!」
一人目、手がかり無し。
「『月がほほえむ』ねぇ……。悪いけど、私もちょっと聞いたことが無いわねぇ」
「そうですか……ありがとうございました」
「あら、あなたなのね? 大親分のアンドリューさんを救ったっていう、施療院の先生の助手さんは。夕陽みたいに綺麗な髪の美少女って噂が立ってるからすぐに分かったわ!」
二人目も、手がかりはなし。あと何だか私たちが噂になってるみたい。
「子守り歌ぁ? へっへっへ、何なら姉ちゃんを腕枕しながら俺が歌ってやろうかぁ? ベッドの上でよぉ……!」
「大親分の恩人に何てこと言いやがる! こっちに来やがれ!」
三人目は、何やら怖そうな人たちに引っ張られて裏路地へと消えていった。
「……はぁ。困ったわ」
思わず、深いため息が漏れる。
覚悟はしていたけれど、やっぱりヘレンのお母様の子守り唄を探すのは、容易なことでは無かったらしい。
私はその後も多くの人に声を掛け、歌の手がかりが得られないかを尋ねて回る。
道行く人々に、店の店員。周辺の町から来た行商人や、道端の物乞いの男。
けれど。……歌のことを知る人に巡り合うことは、ついに叶わなかった。
空もだいぶ暗くなってきて、今日はもう帰ろうかと思い始めた頃。
少し離れた場所から、魚売りの呼び込みの声が響いてくることに気付いた。
私はグレンクロフト先生の言葉を思いだす。魚が捕れるのは、海のある低地だ。低地からやってきた人なら、子守り歌の手がかりを知っているかもしれない。
「燻製魚~! 燻製魚はいらねぇか~! 塩漬けにしたニシン、タラ、それにサバの燻製だよ~!!」
「あの、すみません……」
「おぉ! 魚が入り用かね! 新鮮な取れたてのニシンを塩漬けにして、頭付きで冷燻にした燻製鰊がおすすめだよ!」
魚売りの男は足元の木箱の中からニシンを取り出し、その品質の高さを主張する。
「すみません、そうではなくて、……ちょっとお尋ねしたいことがあるんです」
「おぉ、構わんぜ? 何が聞きたい?」
きょとんとした表情を浮かべた男は、魚を木箱に戻して少し身を寄せた。
「事情があって、『月がほほえむ』という言葉で始まる子守り歌を探しているんです。『川』や『森』、それから『船』という言葉が出てくる、少し悲しい感じの旋律なのだそうです」
「んんん……」
男は、眉間に皺を浮かべて考え込む。顎を上げて、目線が斜め上に。
「いや、あれは……うーん、もしかしたらなんだが」
何かを知っていそうな彼の様子に、どきどきと心臓が昂ぶる。私はついに、歌の手掛かりを知る人を見つけ出すことができたのだろうか。
「俺はこの町から北に行ったストラスコーヴの港町に住んでるんだがな。もう十年近く前にもなるか、まだ二十歳にもならんくらいの女が、ある時ふらりとやって来てな。毎晩酒場で月弦を持って歌ってたんだ。家族が死んで孤独な身の上だっていうんで気にかけてたんだが、彼女が歌う唄に、そんな感じの歌があったような気がする。確か、家族が歌い継いできた、家族だけの歌だ……って言ってたぞ」
胸の中にぶわりと湧いた悪い予感を、私は無理やり押さえつける。
どうかこの嫌な予感が外れていますように――そう願いながら、男に尋ねる。
「……あの。その女性は今はどちらに……?」
「噂じゃ酒場の客だった漁師と結ばれてな。子どもまで生んだそうだが、漁師の方が海で死んじまったらしい。女もいつの間にか、子ども連れて町から居なくなってたって話だ。悪いが、その後のことは俺には分からねぇ」
男は、そう言うと申し訳無さそうな様子で首を振った。
……この嫌な予感は、たぶん当たっている。
酒場で月弦を弾いていた女というのは、きっとヘレンのお母様だ。
彼女が町を出ていった理由が、私には手に取るように分かる。結ばれた漁師が海で死んでしまって、海を感じる港町に居ることがどうしようもなく辛くなってしまったのだ。
そして、山の町であるフェルクリフにやってきた……。
「そうですか……ありがとうございました……」
「おお、魚は買っていかねぇか? 俺が作ったもんで、味には自信があるんだが……」
* * *
布に包んだ燻製鰊を両手に一匹ずつ抱え、私は施療院へと帰っていく。鉛のように重い足を、ずるずると引きずりながら。
ヘレンが思い出せなくなっている子守り歌は、彼女のお母様の家族が歌い継いできた、家族だけの歌だった。孤独な身の上だったという彼女のお母様が亡くなった今、その歌は、この世から永遠に失われてしまった。
ああ…… 彼女に何と言って謝れば良いのだろう。
できもしないことなのに、きっと見つけてみせると約束してしまった。
後悔と無念さに、頬を涙がつたう。
いつの間にか空には曇天の黒雲が広がり、今にも雨が降り出しそうだった。