第11話 誕生日
お父様の夢を見た。
お母様の夢を見た。
家令のジェラルドも、侍女のハンナも、そして筆頭魔術師のリサも。
ハートブリッジの邸宅で、みな幸せに暮らしていた。
それが夢だと分かった後も、私はなお縋り付くように儚げな夢にしがみついて。
枕を涙で濡らしながら目を覚ました時、私の心は陰鬱な黒い雨雲に覆い尽くされたかのように沈んでいた。
この貧民街にやって来て一週間。
ハートブリッジの屋敷から逃げ出し、何もかもを失ってから一週間。
私は変わらず貧民街でトムたちと共に暮らし、グレンクロフト先生の施療院で助手として働いている。
「良いですか、エレナさん。薬は時には毒になると言いますが、中には毒を薬として用いるものもあります。毒としての効果より、薬として期待できる効き目の方が強ければ、我々医者はそれを薬と称するのです。劇薬ではありますが……」
施療院のお昼休み。薄荷を浮かべた香草湯を飲みながら大麦のパンをちぎっていた私に、薬学書を広げた先生が声を掛けてきた。
「……例えば、どのような薬がそうした劇薬にあたるのですか?」
今朝の夢を思い出して憂鬱な気分に浸っていた私だったが、先生の言葉には好奇心をくすぐられる。私は身を乗り出して、彼に尋ねた。
「まずは植物系の薬剤である、顛茄や鳥兜ですね。顛茄には体を温める効果があり、筋肉の痛みや痙攣を抑えます。鳥兜も同じく体を温める効果があり、痛みを取り去る働きがありますが、いずれの薬剤も量を間違えれば人は死に至ります」
顛茄や鳥兜は私でも名前を聞いたことがある。
確か王族の暗殺にも使われたことのある毒だ。薬になるとは知らなかった。
「それから、錬金術系の薬剤にも毒となるものは多いのです。代表的なものは水銀や砒素、そして安質母。水銀や砒素は浄化の作用を持ち、梅毒の治療や寄生虫の駆除に使われます。安質母は嘔吐や発汗を促し、体内の毒素を排出する手助けをする。しかし、いずれも中毒症状や重篤な副作用を残すことのある薬です」
先生の言葉に、私の頭には一つの疑問が浮かぶ。
「本質的に毒であるものを、どうして薬として使おうという考え方になったのでしょうか……?」
その質問に、先生は少し考えた素振りを見せる。少し経って、口を開いた。
「……霊薬の名を聞いたことは?」
霊薬。それは、失った手足を生やすことすら叶うと言われる、究極の薬剤。その効果は聖女の癒やしの奇跡に匹敵するとされ、錬金術の叡智によって創り出される至高の秘薬と呼ばれている。だけど……。
「……聞いたことがあるのですね?」
「…………はい」
だけど、この薬剤の存在は、どこの国でも公には秘匿されているはずだ。
少なくともグリンヴェール王国においては、一部の錬金術師や王族を除けば、伯爵以上の貴族しかその存在を知ることは許されていなかった。
「……私の薬学の師は、宮廷の侍医を務めた人でした」
私が疑問を込めた瞳で見ているのに気付いたのか、先生はそう言い添える。
「彼から聞いた話では、霊薬の生成には、触媒として賢者の石が必要なのだそうです。そして、賢者の石の精錬には、様々な錬金術系の薬剤が使われる。もちろん、猛毒であるものも含めて」
広げていた薬学書をぱたりと閉じた先生は、体を私の方に向けた。
「究極の薬剤を作るために使われる材料なのだから、その材料も適切に用いれば薬としての効果を発揮するはずだ――錬金術系の薬剤が薬として使われる理由は、つまるところ、そんな単純な理由によるものなのかも知れません」
「ありがとうございます、先生。とても勉強になりました」
先生は優しげな笑みを浮かべて頷いて、机の上の薬学書に向き直る。
私は香草湯を一口飲んで、大麦のパンをちぎって口に運んだ。
「……実は先日、教会にある報が掲示されていました」
ぼそりと、先生の静かな声が響く。
「国境を超えた向こう側のハートブリッジ伯爵が王の恩寵を喪失し、廃爵となったと。伯爵は王都にて処刑され、エレノア婦人は討伐軍を相手に、命尽きるまで戦われたそうです。エレナさん。これは、貴方がフェルクリフの街にやってきたまさにその時、グリンヴェール王国で起きていた事件です」
「…………」
心の中は、驚くほど冷静だった。
先生の口から母の死を知らされても、心が揺り動かされることはない。
ただ、知るべきことを知る時が来てしまったと、全てを受け入れる私がいる。
私は、食べていたパンを布袋に戻して、机の上に置いた。
霊薬を知っていること。
そしてハートブリッジ領での騒乱の報。
グレンクロフト先生はきっと、私の正体に思い至ったことだろう。
私がじっと見つめる中、先生は立ち上がり、薬学書を棚にしまう。
そして、私に背を見せたまま椅子に座り直した。
「……エレナさん」
「はい、先生」
彼の背中に、私は姿勢を正して正対する。
「貴方が自ら打ち明ける気になるまで、私は何も尋ねません。これからも、助手としてよろしくお願いします」
そんな先生の言葉に、私の心の中を深い安堵が満たす。
どうやら私はまだもう少しだけ、ここに居られるらしい。
「……はい。これからも、よろしくお願いいたします」
椅子に座ったままの先生の背中に、私は感謝と敬意を込めて深々と頭を下げた。
* * *
「お誕生日おめでとう、エレナ!」
「「おめでとう、エレナ!!」」
午後からの往診を終え、皆で共に暮す家に帰ってきた私を、歓声が出迎えた。
声を掛けられて、初めて思い出す。
そうだ。今日は私の誕生日だ。
「ありがとう、みんな……。でも、どうして?」
「エレナさんのお誕生日、今日だったわよね? 私、ちゃんと覚えていたの」
彼らに私の誕生日のことを話したのは、一週間近くも前の、彼らと出会った日の一度だけ。お互いの過去を話していた時に、ほんの少し話題に上っただけなのに。
「今日は初めてお祝いするエレナの誕生日だから、みんなでご馳走を作ったんだ!」
「アードグレンの料理がエレナさんのお口に合うと良いのだけど……」
トムは私の笑顔を見るのが楽しみでたまらないといった様子で笑い、リリィは少しだけ不安そうな表情を浮かべて、服をぎゅっと握る。
皆の心温まる厚意に、曇っていた心に陽が差す思いがした。
私は喜びを笑顔に込めて、心からの感謝を彼らに伝える。
「みんな、本当にありがとう……! すっごく嬉しいわ……! 私はグリンヴェールで育ったけど、アードグレンのお料理を頂くことも多かったの。好き嫌いは無いつもりよ。とても楽しみだわ……!」
リリィの不安げな表情は、はにかんだ笑顔に変わる。
二人に続いて家の中に入ると、エリミアは既にテーブルに着いていた。
「エレナ、おかえり。……早く食べよう」
「ごめんなさいエリミア。お待たせしてしちゃったみたいね……」
「ううん、待ってない。私が早くから座ってただけ」
十歳のエリミアまで私に気を使ってくれることに心打たれながら、私はトムとリリィと共に席に着く。
「すごい……! まるで貴族のお家の食卓みたい……! その、比喩ではなく、本当の意味で!」
「今日は大晦日の日と同じくらいぐらい豪華なんだ!」
「聞いたことがあるわ……! アードグレンでは冬至の太陽祭じゃなくて、大晦日を大々的に祝うのよね?」
たっぷりのお肉が入っているに違いない大きなパイに、|ドライフルーツの茹でパン《クルーティ・ダンプリング》、燻製魚に、バターを練り込んだ重厚な丸型パン。
テーブルの上に並ぶご馳走に目を奪われながら、私は興奮した声を出す。
「グリンヴェールでは……大晦日祝わないの?」
「そうね、エリミア。グリンヴェールでは、大晦日のことを『ホグマネイ』とは呼ばないわ。それに、お祝いもささやかなものなの」
「じゃあエレナ、年末の大晦日きっとびっくりする」
「違いないわ……! 本当に楽しみね!」
両手を広げて大晦日お祝いの凄さを伝えようとするエリミアが微笑ましい。
「あはは、次の大晦日が楽しみになるね。それじゃあ食事の前にもう一度。エレナ、お誕生日おめでとう!」
「エレナさん、お誕生日おめでとう……!」
「エレナ、おめでとう!」
皆の笑顔が眩しい。孤児という逆境の中、そして貧民街という恵まれない環境の中、それでもめげずに笑顔でいようとする強さが輝いて見える。ああ……この子たちは……本当に素晴らしい。
「みんな、本当にありがとう……!」
「どういたしまして……!」
嬉しさと幸せで目から涙が溢れる。
これは、悲しい涙と違って幸せな涙。
何も知らない貴族の娘でいた頃の私には、誕生日を祝ってもらえることがこれほどに幸せなことだったなんて、想像することもできなかった。
お父様、お母様……。
エレナは今確かに、幸せな時を生きることができています。
今朝の夢で曇天に沈んでいた心は、未だ完全に晴れ上がってはいない。
だけど。
トム、リリィ、そしてエリミア。三人の素晴らしい家族と共に過ごせる幸福が、雲間から私を照らすかのように、心の悲しみを少しずつ癒やしていた。
第一章 「施療院の日常」 完
次回からは第二章、「母の歌声」をお送りします。