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第10話 市場の患者

 私たちを先導する男は、貧民街の中心部を目掛けて走り続ける。


「アンドリューさんは! どんな容態なのですか!?」


 走りながら問いかける先生に、


「わかんねぇ! いきなり倒れて胸を押さえて苦しそうに……! 血を吐いたりはしてねぇが……」


 男ははぁはぁと肩で息をしながら言い返す。


「わかりました! それは一刻を争います! 場所はどこですか!?」

「中央市場の広場だ! 人だかりが出来ているからすぐにわかる!」


 先生はその返事を聞くや否や、男を追い越した。

 私も追いかけようとするが、距離はどんどん離れていく。


「エレナさんは後から追いついてください!」


 そう声を残すと、あっという間に通りの彼方に消えていった。

 あの細い体の一体どこに、あれだけの体力が隠れているんだろう。


 息も絶え絶えな男と共に市場の広場に到着した時には、先生は既に人混みに取り囲まれて患者を診ている最中だった。


「ハァ、ハァ アンドリューの爺さんはどうなったんだ!?」


 私を先導してきた男が人の列を掻き分け、先生の元へとたどり着く。

 輪になった人々の真ん中では、派手な衣装に身を包んだ小柄な老人が、石畳にしゃがみこんでいた。胸を押さえて喘ぐ彼の背中を、先生が撫でている。


 老人の顔は血の気が引いて真っ白で、口を開けて荒い息をする唇は紫に変色している。屋外は震えるほど寒いにも関わらずその白髪は汗で額に張り付き、どう見ても尋常では無い様子だった。


「誰か! 大至急煮えたぎった熱い湯をくれ! 治療薬を煎じるために必要だ!」


 老人の脈をとっていた先生が、人混みに向けて叫んだ。

 すぐさま、二人の婦人が近くの食堂へと駆けていく。


 二人を目で追う私に、先生が手を伸ばした。


山査子ホーソンの実と葉を使います! 貴方あなたの鞄に入っているはず!」


 私が差し出した鞄を、先生はひったくるようにして受け取る。顔に緊張を浮かべながら、鞄の中を探している。やがて、白い袋を二つとり鉢を取り出した。


「エレナさん、さっそく実践です。これは乾燥させた山査子ホーソンの実と葉。お湯が届くまでにこれを擂り鉢で潰してください……!」

「はい……!」


 切迫した事態であることを、先生の表情が告げている。私は慌てて失敗したりしないように心を落ち着かせながら、受け取った薬を擂り鉢で潰し始めた。

 老人に向き直った先生は、彼の上着のボタンを外して緩める。


「く、苦しい……! い、息が……出来ん…… わしは死ぬのか……?」

「死にませんよ、アンドリューさん。心臓が弱っていますが、薬を飲めばすぐに良くなります。弱気は禁物ですよ」


 はぁはぁと荒い息を吐きながら苦しそうに話す老人を、先生は励ます。

 自分が着ていた外套を脱いで地面に敷くと、彼の背中を支えて座らせた。


「胸が痛い……。冷たい指が、わしの胸の内側を触っておる。これは死神の指ではないのか……?」

「それは違います、アンドリューさん。貴方の血が停滞しているためにそう感じるのです。さぁこれを噛んでください。痛みが和らぎます」


 鞄から取り出した何かの樹皮を老人の口に含ませながら、先生は老人の背中を力強く撫でさする。


「先生、潰し終えました……!」

「お湯を持ってきたわよ!!」


 私が山査子ホーソンを細かく潰し終えるのと同時に、薬を煎じるための湯が届いた。

 先生は鞄から錫塗板(ブリキ)のカップを取り出すと擂り潰した薬草を入れ、熱湯を注いで木の棒でかき混ぜる。その様子をじっと眺める私に、次の指示が飛んだ。


「エレナさん、煎じ薬をし取るための布を用意しておいてください。それと、陶器のカップが入っているはずです」

「はい、先生」


 私は、カップの中に布切れを押し込むと、それを先生に渡す。先生は頷いて受け取ると煎じ薬を流し入れ、濾し取った中の布を取り出した。


「アンドリューさん、樹皮を吐き出してこれを飲んでください。ゆっくりです。心臓に力を与える薬です」


 市場の群衆が固唾をのんで見守る中、老人は一口、また一口と薬に口をつける。

 私は新たな布を取り出して、老人の額に浮かんだ汗を拭った。

 眼差(まなざ)しで礼を告げる老人に、グレンクロフト先生が声を掛ける。


「今は血が滞っています。飲み終えたら、立ち上がって少し歩きますよ。血が巡り始めれば、胸の不快感は減っていくはずです」


 左手で胸を押さえたままの老人は、小さく頷いて答えた。


 やがて先生は、薬を飲み終えた老人に肩を貸して立ち上がらせる。

 長身の先生と並ぶとまるで大人と子供だが、先生は老人を支えながら一歩二歩と歩かせた。少し離れた所に置かれていた木箱まで歩くと、彼をその上に座らせる。


 少し経つと老人の顔に血色が戻ってきたので、私はほっと胸を撫で下ろした。紫色だった唇は健康的な色を宿し、ずっと胸を押さえていた手が心臓から離れる。老人の息は今や静かで落ち着いたものになり、彼が危機を脱したことは誰の目にも明らかだった。


 一人の男が拍手をし始め、それが周囲の人々に次々と伝播していく。

 市場の一角にはグレンクロフト先生を称える声がこだまし、私はちょっぴり誇らしかった。


「アンドリューさん。ひとまず危ういところは乗り越えました。しかし、貴方はしんぞうの虚弱を引き起こした原因と向き合わなくてはなりません」


 ちょっぴり照れた様子の先生が、真面目な表情を取り繕って老人に言葉を掛ける。


「当分は脂っこい肉と酒は控えてください。そして、これからは毎日、山査子ホーソン蒲公英ダンデライオンの葉を煎じて飲むように。朝と晩、一度ずつです。いずれも心臓を強め、血の巡りを良くする効果があります。心臓の病で死にたくなければ、必ず守ってください」

「ああ、分かった、グレンクロフト先生。酒が飲めんのは辛いが、言う通りにする。先生のお陰で死神を追い返すことができた。ありがとう」


 老人は弱々しく笑い、先生の手を両手で握りしめて礼を述べた。

 数人に付き添われて去っていく老人と別れた私たちは、人々が感嘆の表情で見つめる中、市場を後にする。

 勿論、湯をくれた婦人たちへの礼も忘れない。


「エレナさん。今回のような人の命が掛かった場面で、慌てずに動けたのは立派でした」

「あ、ありがとうございます、先生」


 思いがけず褒めてもらえたことで、ぽわぽわとした温かな感情が湧き上がった。


「市場に向かう前、エレナさんはなぜ治療のためにお金を取らないのかと仰っていましたね」

「はい」

「私は、その理由は二つあると考えています」


 市場に来た時とは異なり、私の歩調に合わせてゆっくりと歩きながら、先生は言葉を続ける。


「一つ目は一般的な答えですが、世の中に疫病が蔓延することを防ぐためです」

「……あっ」


 考えるまでもない。至極当然のことだった。

 褒めてもらえたばかりだというのに、冷水でも浴びせられたかのように心の奥から羞恥が込み上げてくる。

 貴族の娘としての教育をずっと受けてきたのに、どうして尋ねる前に思い至らなかったのだろう。


「エレナさんは聡明だ。もうお気付きになったのですね。もし医療がお金を取るものであったなら、昨日往診で回った患者たちの多くは、診療を受けようとはしなかったでしょう。その結果、ニールくんのような熱病の患者は放置され、やがてその熱病は人を介して貧民街に広がっていく」


 羞恥で頬が熱くなるのを感じながら、私は先生の言葉に頷く。


「かつて、黒死病の闇が世界を覆ったことがありました。人口の半数以上が死に絶えた街さえあった。そうなっては、もう街は荒廃する一方です。作物を作る農奴や小作人が居なくなり、人々は飢えます。そして、飢えによってさらに多くの人が命を落とす。悲劇の連鎖は、なかなか止まりません」

「はい……」


 先生が話しているのは、きっと医療に携わる者にとって、身に付けていて当然の常識なのだ。この羞恥を二度と味わうことが無いよう、私は先生の言葉を心に刻む。


「だから、そうならないために教会が施療院を運営するためのお金を出します。疫病の恐ろしさを知っているから、領主や地主、大商人や有力者は教会に財産を寄進します。そのようにして、施療院は運営されているのです」

「よく……分かりました。ありがとうございます、先生」


 私の答えに、先生は相変わらずの優しそうな笑みを浮かべ、頷いた。


「もう一つの理由は、……これは私がそうであると考えているだけかもしれませんが、医学の発展のためです」

「医学の発展、ですか……?」


 ……思いがけない答えに、私は驚きを顔に乗せる。


「今日は心臓が弱り、血の停滞を引き起こしていたアンドリューさんを山査子ホーソンの煎じ薬で救いましたね」

「はい」

「実は心の臓の虚弱に、なぜ山査子ホーソンが効くのかを解明した者はいないのです。どうしてその効果が生じるのか、山査子ホーソンと同じく『熱』を補う性質を持った生姜ショウガではなぜ駄目なのか、それは誰も知りません。ただ、経験として知られているだけ」


 グレンクロフト先生の言葉に、私は衝撃を受けた。

 なぜ効くのかさえ分かっていない物が、薬として当たり前に使われている……?


「医学というのは、経験の積み重ねです。昔から多くの医者が独自の理論で試行錯誤を積み重ね、そして効果のあった治療法だけが後世に伝えられてきました。私たちは一人でも多くの患者に対面し、既存の治療が効かぬ患者がいれば新たな治療を試し、その結果を未来に継承していく責任があります」


 医学は理論ではなく経験の学問だなんて、知らなかった。

 それは、今の理論がまだ完璧ではないということの裏返し。


「あまり良い言い方ではないかも知れませんが、現在の患者は、未来の患者をより効率よく救うための、練習台なのです」


 そう言うと、グレンクロフト先生は哀愁を含んだ笑顔を浮かべて微笑んだ。

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