第1話 栄光の終焉
序章 「灰色の路地へ」はじまります。
凍てついた夕闇の中、馬車は駆ける。
泥の轍を乗り越えて、その車輪から大量の水を跳ね上げながら。
リサ――お父様に仕えた、筆頭魔術師の詠唱が響く。
窓から身を乗り出して魔杖を構え、後ろに向けて撃ち放つのは炎の矢。
彼方で何かが燃え上がり、転げながら地面に吸い込まれていくのが見えた。
ああ、どうしてこんなことに。――そんな思いが、頭の中を埋め尽くす。
「お嬢様! お着替えを早く……!」
侍女のハンナが、焦った声で私を急かした。がたごとと跳ねる馬車の中、私が大急ぎで着込んでいるのは彼女のお仕着せ。そして、彼女が慌てながら身に纏うのは、私のドレス。
本当に、どうしてこうなってしまったのだろう。
つい半日前まで、翌週に迫った十六歳の誕生日をどう過ごすかということだけが楽しみだったのに。
頭の中で現実逃避を続ける間にもリサは次の魔法を唱え、ドレスを着終えたハンナは私の髪飾りを外しに掛かる。
ハンナの手を借りながら、着慣れない侍女の服を何とか着終えたその時だった。
ひゅぼっ、と。そんな間の抜けた音がしたかと思うと。
詠唱を続けていたリサの声が、唐突に途切れる。
その胸に広がるのは、黒い染み。
口から血の塊を吐いた彼女は、馬車から身を乗り出した姿のまま外に倒れていく。
「……リサ!」
とっさに伸ばした私の手は空を切り。
窓の外に消えたリサが、ばしゃりと地に落ちる音が聞こえた。
「止まれぇっ!! 護衛は死んだぞ!! 止まれぇっ!!」
馬車の外に地を蹴立てる蹄の音が並び、静止の声が響く。
「……お嬢様、短剣をお貸りします」
ハンナが、きっと口を引き結んで、静かにそう呟いた。
伯爵家の令嬢として、肌見放さず持つよう言い含められている、美しい金の装飾が施された短剣。
それは、万が一この身が汚されるようなことがあれば、先んじて命を絶つためのもの。
貴族としての名誉と絶望の詰まったその大切な短剣を、ハンナはさっと私の手から取り上げ、ドレスの中にしまい込んだ。
……抵抗は、しなかった。
私だって、死ぬのは怖いから。
馬車の外に見える騎乗した兵士たちは、剣を抜いて馬車の曳き馬を切りつける。
馬の悲鳴が響き、馬車はがくりとつんのめって止まった。
馬車の扉が、外から乱暴に開かれる。
姿を見せたのは、黒光りする銀色の鎧に身を包んだ男。
「勝手に扉を開けられるなど、どういう了見か! 貴殿らは淑女に対する礼儀を知らぬと見える!」
御者台から降りた家令のジェラルドが、怒りを露わにして鎧の男に詰め寄った。途端、ばしりという音が響く。
最近歳のせいで腰が痛い――そんなことを以前言っていた彼が、その腰から地面に倒れ込んだ。
思わず出そうになった声を、すんでのところで抑える。
侍女のお仕着せに身を包んだ私がジェラルドを名前で呼べば、私の正体を悟られてしまう。侍女ならば、彼を名前ではなく家名で呼ぶものだからだ。
「当家の家令に何をするのです。あなた方の目的は私ただ一人のはず。使用人に暴力を振るうのはおやめ下さい」
私の格好をした侍女のハンナが、震える声でそう呟いた。
私とハンナが衣装を取り替えていることに気付いたジェラルドが、一瞬だけほっとした顔を見せる。
私たちは鎧の男の指示に従って、馬車を下りる。
周囲にいるのは、三人の男たち。みな頑丈そうな金属鎧に身を包んでいるが、兜は被っておらず、顔は全員がむき出しだ。
馬車から落ちたリサのことが気になって、後ろを振り返る。
宵闇に飲まれつつある山道があるだけで、彼女の姿はどこにも見えない。
「伯爵令嬢、エレナ・フィオーレ・アルテヴェールだな?」
鎧の男が口にした。
「そうです。私がエレナです」
凛とした口調で、ハンナが答える。
背筋を伸ばして気高く立つ彼女の姿を見れば、きっと誰もが本物の伯爵令嬢だと思ってしまうだろう。
彼女が身代わりになれば、私は助かるかも知れない―― 本当に一瞬だけ、そんな思考が頭をよぎって、強烈な自己嫌悪に襲われた。
「ハートブリッジ伯爵、エドワード・セシル・アルテヴェールは下劣にも大逆の罪を犯し、処刑された。その家族にも捕縛の命令が出ている。騎士パーシバル・オーウェン・メドウズの名において、エレナ嬢、貴方を拘束させて頂く」
「……どうぞご随意に。ですがパーシバル様。一つだけ私の願いを聞いて頂けますか?」
名を名乗った騎士に、ハンナが問いかける。
「……聞くだけならば、お聞きしよう」
「ありがとうございます。願いというのは、我が家の使用人たちをこのまま逃がしてやって欲しいのです。彼らは罪人の私を逃がそうとしたばかりか、私を守ろうとして貴方の部下を傷つけました。罪に問われれば、待つのは死刑のみでしょう」
「…………そうであろうな」
ハンナの言葉に、騎士の男は頷いて同意を示す。
「私は、私の為に尽くした者たちが命を奪われることを良しとはしません。パーシバル様、どうか情けをかけて、私の使用人たちを逃がしては頂けないでしょうか」
騎士パーシバルは何も言わず、ただ瞑目して佇む。
「隊長、しかし……」
「……分かっている」
彼の部下らしき男が、パーシバルに声を掛けた。
パーシバルは深い溜め息を吐き、口を開く。
「エレナ嬢、申し訳ないが、それはできない」
彼の言葉に、彼の両隣に居た男が剣を引き抜いた。
金属が擦れるしゃりんという音に、思わず体がびくりと震える。
「アルテヴェール家の一族以外の逃亡者は、その場で処刑せよ。……それが、我が主命であるからだ」
「やめよ! 本当はこのお方は――」
剣を握り締めて近づいてくる二人の男に、家令のジェラルドが焦った声を出す。
その刹那、馬車の後ろ、暗闇の彼方に紫の光が走った。
身を震わせるばちんという轟音とともに、目の前が白い光で埋め尽くされる。
「ぎゃあっ!?」
「ぐあっ!」
白く目が眩む中、響くのは二人の男の悲鳴と、馬のいななき。
暗闇の向こうに倒れる筆頭魔術師のリサが、魔法を放ったのだ。
視界が戻った時には、二人の男と、二頭の馬が地に倒れ伏していた。
馬の方はびくびくと巨体を震わせ、肉が焦げる臭気が辺りに漂う。
「何っ!? 貴様らっ!」
「うあぁぁぁあああっ!!」
騎士パーシバルが、慌てたように剣の柄に手を掛けた。
そこに、ハンナが短剣を抜いて突っ込む。
「お嬢様!! こちらに!!」
「ジェラルド!」
立ち上がったジェラルドが、私の体を抱え込んだ。
重さなんて感じていないかのように、私を抱き上げるジェラルド。
そのまま一頭だけ残った、騎士の乗ってきた馬に私を押し上げ、続いて自分も騎乗する。すぐに馬の腹を蹴って、走り出した。
「ハンナ!!」
置いてけぼりになった彼女のことが心配で、思わず絶叫する。
叫んでから、自分の行為が逆に彼女を危険に晒す行為だったと気付いて、絶望した。私だと思われているうちは、傷つけられなかったのに。
全てを悟ったらしき騎士パーシバルは、顔に憤怒の表情を浮かべて、ハンナを切り捨てた。
「あぁぁあ゛あ゛あ゛あああ゛っ!!!」
喉から絞り出されるこの絶叫は、本当に自分の声なのだろうか。
全てのことに現実味がない。速度を上げる馬の背に揺さぶられながら、私の心はふわふわと宙に浮いたまま。
ジェラルドの肩越しに見える、騎士パーシバル。
ハンナの短剣を片目に受けてだらだらと血を流す、その騎士は。
腰に吊った何かを取り出し、こちらに向けると……
闇の中に真っ赤な閃光が走った。
ひゅぼっ
――また聞こえた、間の抜けた音。
ジェラルドの体がびくりと震え、私にもたれ掛かってくる。
「ジェラルド!?」
思わず悲鳴を上げて、彼に目をやる。
その顔には苦悶の表情。
短銃……そんな言葉が、頭に浮かんだ。
怒りと憎悪を込めた視線を、騎士に向ける。
恨めしげに見つめ返す蒼い双眸が、暗闇の向こうへと消えていった。
15話までは毎日3話ずつ投稿予定です。
投稿時間は12:10、18:10、20:10の三回です。