【第七話】虚勢
「はぁー・・・」
しばらくして足を止め、廊下の窓を開け外の空気を胸いっぱいに取り込んだ。二階の窓から一階のエントランスに視線を移すと、旬を終えたあじさいの花がまだ少しだけが咲いていた。昼休みのため、売店があるエントランス付近にはたくさんの生徒が出入りしている。
昨日の桜羽の言葉が脳裏にべったりと張り付いている。自分も桜羽にとっては大勢の生徒の内の一人で卒業したら忘れられる存在なのだろう。現に先ほどの桜羽は昨日の出来事などなかったように普通に過ごしている。
「私は絶対忘れないのにね・・・」
夏に近づく生温い風が頬をなでる。胸の中でぽつぽつ沸いてくる感情に必死で蓋をする。それでもそこから滲み出て来る恋情が心の中にじんわりと広がっていく。気づいて欲しくないのに、どこかで気づいて欲しいと勝手なことを思いながら、いろはは腕の中に顔を埋めた。
□□□
「部長~次の部長って決まってます?」
「う~ん。多分決まってるんじゃないかな。いつも合宿の最終日に言うのが恒例だから」
「やっぱり俺っすか!?」
「アンタが部長になったら美術部も終わりよ」
「なんでだよ、体育会系バリに盛り上げてやンよ!!なっ堀之内もついて来るだろ、この俺に!」
「俺は誰でもいいです」
美術室のドアが開いた。そこには花束を抱える桜羽の姿があった。白のトルコキキョウに黄色や黄緑のカーネーションなどの花束だった。
「よかった、まだデッサン始めてないね」
「先生っ!なんすかその花!!」
「素敵。とても綺麗ね」
「あっ!さては、女からのプレゼントっすか!?」
「違うよ。相変わらずだな、桃山君は。校長先生が頂いたらしくて、よかったら美術部にと分けて下さったんだよ。小鳥遊さん花瓶持ってきてくれる?」
「はい」
桜羽が持つ花束から、微かに甘い花の香りが漂っている。いろはは準備室に置いてある大きめの花瓶を持ち、水を入れるため廊下に出た。蛇口をひねると勢いよく出てきた水が、ステンレスを叩き付けエプロンに跳ね返った。花瓶に溜まっていく水を見ながらため息が零れた。
「先輩」
「わっ!ビックリした。堀之内君か。どうしたの?」
堀之内が少しダルそうに水道までやって来た。いろはは花瓶から溢れて来た水に気付き慌てて水を止めた。ため息が聞かれたのではないかと堀之内を見た。堀之内は普段から口数も少なくあまり感情を表に出さないタイプなのでよくわからなかった。
「桃山先輩が俺がやれって。一年だから」
「桃山君が?いいのに別に、これくらい」
「・・・」
「部活慣れた?」
「まぁ、それなりに」
堀之内の不愛想な物言いに少しだけ苦手意識を持っていたいろは。なにを聞いても返事は「うん」や「あぁ」「別に」ばかりだった。しかし唯一入部した一年生。少しでも美術部員に打ち解けて欲しいと部長である以上できる限り気にかけていたがその距離は一向に縮まらない。
「そっか、なにか困ったことあったら言ってね」
いろはが両手で花瓶を持つと水が入った花瓶は重みを増していた。堀之内はそれを軽々と取り上げた。
「部長って大変なんですか?」
「えっ」
「さっきため息ついてたから」
「あっその・・・さっきのはほら、受験で色々悩んでるからよ。部活は楽しいよ」
「そうスか」
堀之内は適当な返事をするとさっさと教室へ戻っていく。いろはが少し遅れて教室に戻ると花瓶に活けられた花が教室の真ん中に置かれていた。花を囲むようにすでにデッサンが始まっている。普段あんなにうるさい桃山も部活が始まるとピタリと話さなくなるから不思議である。
「ありがとう、小鳥遊さん」
部員の集中の妨げにならないように桜羽は小声で言った。いろは軽く頭を下げた。少し遠くに椅子を置き、デッサンを始めた。黒い鉛筆で真っ白な画用紙に描いていく。描き始めのこの瞬間はいつも緊張する。水に活けた花は花びらに水滴が付き、瑞々しく潤っている。太陽の光に照らされて美しさが増した。
デッサンが終わり各自文化祭に向けての作品に取り掛かった。三年のいろはと白峰は卒業制作の完成まであと少しのところまできていた。引き続きにキャンバスと向かい合う。絵具を出そうと準備室に入ろうとした時だった。
「小鳥遊さん、ちょっといいかな?合宿についてなんだけど」
「はい」
桜羽に呼ばれいろは廊下に出た。美術室から離れるように桜羽は廊下を歩いて行く。
その後ろに着いて行くいろは。いつもなら二人きりで話せることに気持ちが弾んでいた。けれど昨日の出来事を目撃してしまった今はできるだけ二人きりには、なりたくなかった。部活動の話となれば部長としてそうは言っていられない。桜羽は突き当りを曲がったところで静かに足を止めた。
「先生?」
通常の伝達事項は教室を出たところで行う。少し離れたここまでやってくるのは初めてだった。桜羽を見上げると少し気まずそうにしている
「小鳥遊さん昨日の帰り図書室に寄った?」
突然のその質問にいろは言葉につまった。いろはの泳いだ視線に気づき、桜羽は顔を隠すようにメガネをかけ直した。はぁと深く重い息を吐き出した。また吸い込んだ。珍しく眉間に皺が寄っている。。
「やっぱりいたよね、後姿が似ていたからもしかしたらと思って」
「すみません・・・聞くつもりなかったんですけど」
「いや、君が謝ることはないよ・・・。ただ・・・」
「・・・ただ?」
「申し訳ないけど、このことは内密にしといてくれないか?相手のこともあるし
桜羽の表情にいろはは「ほら、やっぱり」と心の内でつぶやいた。自分だったら先生にこんな顔はさせない、と昨日の女子生徒を卑下した。その他大勢と理解しながらも、自分は違う。いろはは心の中でそう思った。
「もちろんです。誰にも言いませんから安心してください」
「そうか、ありがとう。見ていたのが小鳥遊さんで良かった」
「先生モテるから大変ですね」
「そんなことないよ」
「またまた、ご謙遜を」
「違うよ、本当に・・・そうじゃないよ」
いろはの顔にはニッコリと張り付けた純朴な高校生の笑顔。それを崩さないように桜羽を見上げた。今日もシワひとつないシャツは清潔感があって、紺のネクタイの色は桜羽によく似合っている。口元を抑えながら苦い表情を引きずっている。
「一時の気の迷いかな。若い子にはあるだろ。その・・・なんていうか年上に憧れを感じる時っていうのが。でも『憧れ』と『好き』は違うからね」
そう言うと桜羽はいつものように柔らかく微笑んだ。
「小鳥遊さん?」
「いえ、なんでもありません。私、教室に戻りますね」
いろはは美術室へ戻った。
一人になった廊下でふぅ、と肩の力を抜く桜羽。ネクタイで絞めつけられた胸元を少しだけ緩めた。
先生が憧れというなら、憧れなんだろう。
気が付けば目で追っていたり、
胸が痛むくらいにしめつけられたり、
一方通行な想いに強烈な虚しさを覚えたり。
全部、全部、憧れという一時の気の迷いな
んだろう・・・。