【第五話】思惑
「えっ断った!?なんでよっ」
「う~ん。なんかしっくりこなくて」
「しっくりって・・・もぉなによそれー」
それは授業が始まる前のことだった。鏡を忘れた美鈴がいろはに借りにきた。寝ぐせがついているからと長く伸びた髪の毛を結び始める。いろはは昨日の告白された返事を思い出したように告げると、美鈴の手が止まった。せっかくまとめて上げていた長い髪が、その言葉にパサリと元の長さに戻っている。前に座っていた世那も少しだけ驚いた様子でいろはの顔を見つめた。
「彼どんな顔してた?」
「顔?スマホで返事しただけだからわかんない」
「スマホ?」
「いろはちゃんスマホで返事したの?」
「うん」
「ったくあんたは。昨日も言ったけどさ、いろはさんそれは失礼じゃないですか?」
「えっそうなの?」
「いろはちゃんはあんまり知らない人だったかもしれないけど。相手は直接気持ちを伝えて来てくれたんだから、それには答えてあげなきゃ」
「・・・そうなんだ」
チャイムが鳴り終わると桜羽が教室に入って来た。一時間目は古典の授業だ。その姿が視界に入ると、胸の内に湧きかけた小さな罪悪感などすぐに消えていた。古典の教科書を出しページをめくる。授業は桜羽の落ち着いた声と共に始まった。
「では次、麻木さん呼んでくれるかな」
「はい」
黒板に文字を書く桜羽。白いチョークで整った文字が並んでいく。その文字の羅列にすら、愛おしさを感じてしまう。ふと先ほどの美鈴と世那のやりとりが頭をかすめた。ぼんやりと昨日の男子生徒のことを思い出したが直ぐに止めた。ため息が零れそうになるのを呑み込み、前にいる桜羽に視線を移した。授業のときは、無条件で見ることが出来る。ずっと見ていても他の人に怪しまれる心配はない。いろはにとって古典の授業は贅沢な時間でもあった。
教師である桜羽は好きでもない生徒に告白されればきっと困るだろう。時々、冷静な自分がすまし顔で問いかけてくる。先生と生徒が恋仲になるなんてまずありえない。そんなものドラマや漫画の世界。だったらいっそあきらめて違う人と付き合う方が現実的。頭では理解していても行動に移せず三年生になってしまった。いろはは桜羽から目をそらした。教科書に視線を移し替えても、教室に広がる桜羽の声に自分の意思とは裏腹に鼓動が高鳴っていく。心臓の奥が握られる感覚。いろはは気づかれないように息を静かに吸い込んだ。
このまま黙っていれば、夏がきて冬が過ぎたら卒業をする。そうすればもう桜羽と会うことはなくなる。好きだからこそ、困らせずに卒業をしよう。そう自分に言い聞かせた。
□□□
暑さも増し夏休みまで数週間と迫っていた。いろはは、部員の夏合宿の申し込み表を桜羽に提出しようと部活後に職員室へ向かった。外を見ると少しだけ雲行きが怪しくなっている。グラウンドから天候をかき消すほどの運動部の活気ある声が聞こえてくる。どの部活も三年はこの夏で引退となる。引退すればいろはが桜羽に会う機会も少なくなる。
職員室に入ると桜羽の姿がなかった。奥の方までグルリと見渡してもいつも簡単に見つかる姿が見当たらない。
「あの、桜羽先生は?」
「桜羽先生?あれ、さっきまでここにいたけどな。荷物もあるし帰ってはないと思うが。どこに行ったのかな」
尋ねた教師も桜羽の机を見ながら、不思議そうに言った。いろはは職員室を出ると手に持っている提出物をどうするか考えた。提出期限は今日までだった。けれど不在なら仕方がない。明日朝一で渡しても怒りはしないだろうといろはが帰ろうとした時、向かい側の別校舎に桜羽らしき影が見えた。
「桜羽先生?」
怪しかった雲行きは、先ほどよりも暗さを増していた。運動部も雨を心配し切り上げていく。気づけばグラウンドは静かになっていた。いろはは帰宅する生徒たちとは反対に別校舎に向かった。人がいなくなった校舎に入ると、冷房が切れたせいか生暖かい空気が漂っている。息を吸い込む度に暑さがまとわりついてくる。確信がない中、人影を見た二階へ上がる。本当は今日は桜羽にまだ会えていないから、できたら顔を見て帰りたかった。淡い期待を抱きながら階段を一段また一段と上がっていく。職員室から見えた教室は図書室だった。桜羽は古典の教師でもあるから調べものがあったのかもしれない。いろはが図書室のドアを開けようと手を伸ばした。その時だった。中から微かに女の声が聞こえた。
「あたし・・・それでも・・・先生のこと」
はっきりと聞こえてきたその声にドアに触れる寸前で手が止まった。反射的に殺した呼吸。