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【第十六話】曖曖

「・・・先生」

「ん?」

 声が震えていた。いろはは乾いた唇をギッと噛み締めた。

「先生、結婚するんですか」

「あぁ、ハハ。やっぱり生徒たちに広まるのは早いな」

窓枠に腕をつき困ったように笑う桜羽。風で髪が揺れる中メガネをカチッとかけ直した。

「こないだの女の人?」

 桜羽の後姿を黙って見つめるいろは。学校ではいつもスーツを着ていて暑い日はジャケットを脱いでYシャツになる。それでも必ずネクタイは締めていて、青色や派手過ぎない柄有のネクタイは、さすが美術部の先生でセンスがあると思っていた。でも、もしかしたら全てあの女の人が選んでいたのかも知れない。

 そう脳裏に過った瞬間、吐きそうになった。今まで自分が知っていた桜羽は教師としての一面にしかすぎないと見せつけられているようだった。確かに自分は生徒の中では話しやすくてお気に入りかもしれない。けれどそれ以上には決してなれない。あの夏祭りの日、学校や生徒の前では見せることのない桜羽が女性に向けていた表情や仕草。消しても、消しても浮かび上がってくる。それがいろはを更に苦しめた。

「さすが小鳥遊さんはするどいな」

 いつもと変わらない桜羽の声にズキリと胸の奥が抉られる。また棘を刺されたような痛さ。もう何本目だろうか。その棘が抜けないまま、どくどくと痛みが広がっていく。この痛みから逃れる方法はあるのだろうか。困らせたくない。好きだからこそずっとそう思っていた。この想いはどこにいくんだろう。どうして自分はこの人を好きになったのか。どうして先生と生徒として出会ったのか。

「せんせ、私・・・先生が好きです

 外を眺めていた桜羽の視線がいろはに向けられた。自分が今どんな顔をしているのかわからない。顔を見られたくなくて俯いた。桜羽は迷惑がっているだろうか、哀れんでいるだろうか。けれどいろはは俯いたまま、自分の上履きを睨むことしかできずにいた。呼吸がおかしい。息をしているのにしていないように苦しく感じた。

「一年の頃から先生がずっと好きだった」

 この痛みが『憧れ』と言うならなんて残酷なんだろう。これを『恋』と呼ぶには愚行すぎるだろうか。

「小鳥遊さ」

「困る?困るでしょ?・・・だから言うつもりなんてなかったのに。先生が好きだから。大好きだから黙って卒業するつもりだったのにっ」

「た、小鳥遊さん。落ち着いて」

 いろはを落ち着かせようと桜羽が手を伸ばすとパシンと音を立てて払いのけられた。乾いた音が廊下に虚しく響く。涙が溜まったいろはの瞳は視線がぼやけ桜羽がどんな表情をして自分を見ているかわからなかった。

「なのにっどうして!?どうして、今・・・結婚するなんて言うの」

「たかな・・・」

「卒業すればどうせ会えなくなるんだから。卒業してから言ってくれればよかったのに」

 廊下にいろはの声が反響していく。息が上がっていくいろはの頬に涙が流れた。涙を止めようと眼球に力を入れたり息を止めてみるが一度溢れ出した想いを止めるのは容易ではなかった。

「小鳥遊さ」

「先生はただの憧れだって言ったけど・・・私はずっと先生の特別になりたかった。先生の前で良い生徒でいたかった、困らせたくなんてなかったのに」

「ごめん、ごめんね」

 その場に力なく座り込むいろは。ぼろぼろと溢れた涙がスカートに小さなシミを作っていく。しゃくり上げる声とそれに連動するように肩が上下する。

「僕も配慮が足りなかった・・・。本当は今言うべきじゃなかったのはわかってる。でも色々噂がたってしまってそれを鎮めるには早めに報告するべきだと校長から言われてしまって」

 桜羽はしゃがみ込みいろはにハンカチを差し出した。綺麗にアイロンがけされたハンカチだった。ハンカチの上から触れた手が優しかった。


「本当にごめんね・・・こんな大事な時期に君の気持に気付いてあげられなくて」

「せん、せ・・・」

「ありがとう。小鳥遊さん」

 桜羽の大きな手がいろはの頭を優しくなでた。いろはは桜羽が優しいことを誰よりも知っているつもりでいた。そんな桜羽が自分の好意を迷惑がるような態度を見せるわけがなかった。受け入れられることはなくても、受け止めてくれる。自分が好きになった相手はそういう人。だからどうしようもなく桜羽に惹かれたことにようやく気がついた。いろはの堪えようとしていた涙が、また一気に溢れてくる。

「私・・・おめでとうなんて、言えません・・・酷い生徒でしょう」

「ううん。そんなことないよ。小鳥遊さんは優しい子って知ってるから」

「お願い先生・・・。私のこと忘れないで」

「うん。忘れないよ。ありがとう」

桜羽はいろはが泣き止むまでずっと傍にいた。開いた窓から、夕暮れが長い廊下に差し込んでいる。



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