第2章:リリア・レイヴン
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白く光る草原に、柔らかな風が吹き抜ける。
その中に、ひとりと一匹――ハクとチャッピーが立っていた。
「……うん、やっぱり変だな」
「どうしたの、ハク?」
「いや、空気の匂いとか、風の流れとか……妙に“リアル”で。現実の感覚と区別がつかないというか」
ハクは草を指でなでてみる。細い一本一本に弾力があり、指先に触れた感覚も、本物の草とほとんど変わらない。
「ふふっ。だってここは君たちプレイヤーの“脳波と記憶”から再構成されてる世界だからね。違和感がないのは当然かも」
「脳波と記憶……」
思わずハクはチャッピーを見つめる。
ただのゲームだと思っていた。けど、これは本当に“現実に近い何か”なんだ。
チャッピーが軽やかに跳ねる。背中の小さな羽がふわりと揺れた。
「でも、これは単なる再現じゃない。この世界は……君の“心”が生み出すフィールドでもあるんだよ」
「俺の心が……?」
その言葉に、ハクの目が少しだけ細まる。
「心」が関係してる? それって、どういう意味だ。
「うん。オルヴァリアっていう世界は、“感情”や“想い”が形になる。ときには武器に、ときには音楽に、ときには――出会いにすら、ね」
「感情が……音楽に?」
その言葉に、ハクは思わず一歩、チャッピーに近づいた。
どこかで、聞いたような気がする。
いや、願っていたのかもしれない。そんな世界を。
「ま、今はまだ知らなくていいよっ。少しずつ、君が思い出すから」
チャッピーがにこっと笑う。
その笑顔には、どこか“知っている”ような、懐かしさを含んだ響きがあった。
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数日後。
初心者の町”シルフィア”での生活にも少しずつ慣れてきたハクは、チャッピーの提案で次の目的地へ向かうことにした。
「そろそろ、“冒険者の街”に行ってみよっか。シルフィアは穏やかだけど、本格的な旅はその先からだよ」
「……うん、行ってみたい。もっとこの世界を知りたいから」
転送門の前で、ハクはひと呼吸おいて振り返った。
この数日で出会ったNPCたちの顔が脳裏をよぎる。皆どこか温かくて、人間らしかった。
「また、戻ってこよう」
肩に乗ったチャッピーが頷いた。
「大丈夫。オルヴァリアの世界は、旅しても、ちゃんと繋がってるから」
光の中へ足を踏み出すと、次の瞬間には、新たな世界がハクを包み込んだ。
「ここが、“風ノ街ライエル”。空に浮かぶ五大都市のひとつだよ!」
チャッピーの声に導かれて、ハクは大通りを歩いていた。
白と青を基調とした建築群が、光を反射してきらきらと輝いている。
露店、馬車、笑い声。
NPCたちも、プレイヤーも、誰もが“ここで生きている”顔をしていた。
「……すごい。もう、完全に一つの都市だな」
ハクが目を奪われていると突然――
「とめてえええええええ!!!」
「えええええぇぇ!?!?」
空から何かが――いや、誰かが落ちてきて、見事に地面へ激突。
そこに倒れていたのは、金色の髪を持つ少女。
白い軽装の鎧を身にまとい、肩からは剣を提げている。
「い、いてててて……。やっぱ空中移動はまだ慣れないなぁ……」
「だ…大丈夫ですか?…」
彼女は、ハクを見上げて目を丸くした。
「あれ……もしかして、新人冒険者さん?」
「え…ああ、今日から始めたばかりで…」
「おおっ、じゃあ初日組だ! いいねいいね! あたしはリリア・レイヴン! 剣士のレベル22!」
「22って……すごいな。もうそんなに?」
リリアは胸を張って笑う。
「えへへ、実はあたし、ベータテスト組だったの! 正式サービスと同時にデータが引き継がれてさ。だからちょっとだけ、先輩なんだ!」
「なるほど……それなら納得」
ハクはリリアを見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。
――頼れる“おてんば先輩”がそばにいるなら、まぁ、なんとかなる……のか?
いや、なる気はしないけど、退屈はしなさそうだな。
「わからないことがあったら、なんでも聞いてね! 案内なら任せてよ、ド派手に行こっ!」
「じゃあ……この街のこと、教えてくれるか?」
「もちろんっ! ついてきて、迷子になっても知らないからねー!」
そう言って、リリアは笑いながら走り出した。
まるで風みたいに自由で、ちょっとだけ強引で――でも、楽しそうだった。
「ふふっ、じゃあまずはあっちの通り! 商人の屋台が並んでて、武器や防具、それから食材も売ってるよ」
ハクは言われるままについていきながら、改めて町の景色に目を向けた。石畳の路地、道端で演奏する楽師、駆け回る子どもNPCたち。そこには確かに“暮らし”が息づいていた。
「この先に見える大きな建物が、宿屋ね。中では食事もとれるし、ログアウト前に泊まっておくとちょっと回復ボーナスがつくの」
「ログアウト前……ほんとに生活してるみたいだな、この世界」
「でしょ? だからこそ、ちゃんと準備も必要!」
リリアはぱんっと手を叩き、振り返った。
「そうだっ! 最初の登録をしに、冒険者ギルドに行こっか!」
「登録?」
「うん。ギルドで冒険者登録しておかないと、正式なクエスト受けられないからね。すぐ終わるから、安心して!」
そう言って、リリアは再び先を歩き出す。
大通りを抜け、広場の奥に構える立派な建物にたどり着くと、リリアがふと立ち止まり、振り返った。
「あ、そういえばまだ名前聞いてなかったよね」
「あ、そうか……俺は、ハク。よろしく」
「ハクくん、ね。うん、いい名前!」
リリアは満足げに頷いて、胸を張った。
「改めて、あたしはリリア・レイヴン! 剣士で、この風ノ街ライエルの案内役!……ってわけでもないけど、まあそんな感じ!」
「ははっ、自称案内役って……でもなんか、それっぽくていいね」
ハクは笑いながらそう言って、少しだけ肩の力を抜く。
「でもほんとに助かってるよ。まだ土地勘とか全然ないし、リリアがいてくれてよかった」
「ふふん、任せてってば!」
そう言って、リリアは建物の中へと軽やかに入っていく。
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「はいっ、ここが冒険者ギルドだよー!」
リリアに連れられて入った建物の中は、木造の梁と煉瓦の壁が暖かみを醸し出していた。
カウンターの奥には笑顔の受付嬢、壁には掲示板、奥には他の冒険者たちが談笑するテーブル席――いわゆる“RPGの世界”そのものだった。
受付の前にいた青年がリリアの姿を見て手を振った。
「お、リリア姉さん! また新人案内してるのか?」
「うんっ! 今日も将来の英雄を連れてきたからね〜!」
リリアがにっと笑ってハクの背中を押す。受付の女性もリリアを見ると、親しみを込めた目を向けた。
「ベータ時代からお世話になってますからね。リリアさん、いつもありがとうございます」
「えへへ〜、どういたしまして〜♪」
ハクはそのやり取りを見て、リリアがこの街にとって“顔”のような存在であることを悟った。ただの元気っ子じゃない。彼女には、確かな実力と信頼がある。
リリアが軽やかに駆け寄り、カウンターにいた女性のそばでくるりと振り返る。
「ハク、こちら! このギルドの看板受付嬢、シルフィさんだよっ!」
「もう、リリアったらまたそんなこと言って……」
女性はくすりと笑ってから、やわらかな声でハクに向き直った。
「いらっしゃいませ。冒険者登録をご希望ですね?」
ハクは少し戸惑いながらも、こくりと頷いた。
「えっと……はい、お願いします」
「それでは、こちらの《登録端末》に触れていただけますか?」
受付嬢――シルフィと呼ばれた女性が差し出したのは、浮遊する透明なキューブ状のデバイスだった。
中で微細な光の粒が舞っていて、まるで星の欠片のように揺らめいている。
「これは?」
「あなたの“脳波情報”とアバターの基本設定を紐づけて、冒険者登録を行う装置です。この世界では、職業やステータスだけでなく、個人の“意思パターン”まで記録されるんですよ」
「意思パターン……」
不意に、チャッピーの言葉を思い出す。
――「君の“心”が生み出すフィールド」。つまり、そういうことか。
「…よ、よしっ。」
意を決して、ハクは手を端末に触れた。
瞬間、周囲の音がフェードアウトし、意識が光に包まれる。
──
《登録開始》
【名前】ハク
【属性】???
【適正】剣術型(心因性特性:共鳴)
【特殊認識:音導】
──
「……っ!」
光の中から、聞き慣れた“歌声”がわずかに響いた気がした。
けれど、それは一瞬で消え、次の瞬間には現実感が戻る。
「はい、登録完了です! おめでとうございます、ハクさん。あなたは正式に“オルヴァリア冒険者連盟”の一員となりました」
カウンターの奥から、金属製の小さなバッジが手渡される。
中央に剣と羽根を象ったマーク、そして下部には《No.010198》という番号が刻まれていた。
「これが、あなたの冒険者IDバッジです。失くさないようにしてくださいね。各地のギルド施設でこれを提示することで、サービスを受けられます」
「なるほど……これが、“冒険の証”か」
「うん! それがあれば、もうどこへ行っても立派な冒険者だよ!」
リリアが誇らしげに笑った。
ハクも、バッジを握りしめながら、少しだけ肩の力が抜けた。
「そうだ!ハク!この世界の食事って、見た目だけじゃないんだよ」
リリアがそう言って、近くのテーブルに座ると、手を挙げた。
「すみませーん、ローストミートプレートと、ピーチジュースお願いしまーす!」
「……えっ、注文?」
「うんうん、びっくりするよ? この世界、“味覚”あるからね!」
ハクは思わず目を見開いた。
「えっ、でもゲームでしょ? 味って、ただのデータでしょ」
「そう思うでしょー? でも、“脳波に直接刺激を送る”ってことは、味覚も再現できちゃうんだよね〜。リアルの記憶にある味を元にしてるから、正確さは保証付き!」
「つまり、俺の脳にある“美味しかった記憶”をベースにして……」
「そう! だから、自分にとって“最高においしい唐揚げ”が出てきたりするわけ!」
リリアがにかっと笑うと、店員(おそらくNPC)が、木のトレーを運んできた。
肉の香ばしい香り、湯気、ジュースの甘い匂い。
ハクは無意識にゴクリと喉を鳴らす。
「……本当に、食欲をそそる匂いだな」
「試しに食べてみてよ! ね!」
促されるままに、ハクは一口。
――ザクッ。
「……うまっ……!」
ハクの目が見開かれた。サクッとした衣が歯を心地よく弾き、衣の中にはふわふわの白身。そして、口に広がる香ばしさと、ほのかな甘味。鼻に抜ける風味とともに、体が思わずゆるむような感覚が走る。
――これは、現実のそれとほとんど変わらない。
いや、それ以上だ。まるで「美味しい」という感覚を、感情に直結させたような、純度の高い体験。
唾液が自然に溢れ、もう一口、もう一口と手が止まらなくなる。
「……すごい……。これ……現実で食べるのと、ほとんど変わらない……いや、完全に“食べてる”感覚だ」
「でしょ〜? この世界、味覚も完璧に再現されてるんだよ〜。やばいよね!オルヴァリアはこういう所もすごいんだからっ!」
リリアが得意げに笑い、もう一本の魚フライを口に運ぶ。
チャッピーも木の皿に顔を突っ込んで、何やらもぐもぐしている。
「でもさ、これって……空腹とかってどうなってるの?」
「そのへんはプレイヤーによって設定できるみたいだよ。空腹を感じるモード、無効にするモード、それに“制限付き”のやつもあるって聞いた!」
「なるほど……食の感動も、ゲームの一部ってことか」
ハクはしばらくの間、黙って料理を味わった。
この世界の風景も、戦闘も、そして――“食事”すらも、あまりにリアルすぎる。
まるで、本当に生きているような感覚。
これがただの「ゲーム」だとは、もう思えなかった。
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食事の後、リリアは立ち上がり、剣を背にかけ直した。
「さて、次は本格的に冒険に出ようか!」
「え? もう?」
「うん! ちょうどいいパーティ募集があってね。“西の森の精霊調査”ってクエストなんだけど、報酬もいいし、戦闘もちょっと本格的!」
「精霊調査……なんか響きがかっこいいな」
「ふふっ、でしょ? ちょっと奥地まで行くけど、チャッピーがいれば安心だし!」
チャッピーがぴょんとハクの肩に飛び乗る。
「行ってみよう、ハク! キミにとっても、ここからが“本当の物語”の始まりだから」
「本当の、物語……」
まだ知らないことだらけのこの世界。
でも、その一歩が、今確かに踏み出された気がした。
ハクは剣に手を添え、軽くうなずいた。
「よし、行こうか!」
リリアはくるりと振り返り、手を差し出す。
「さぁ、剣士さん。ワクワクする冒険の始まりだよ!」
「……その前に、パーティ組まなくていいのか?」
「あっ、そうだった! うっかりうっかり!」
リリアは勢いよくメニューを開き、何やらぽちぽちと操作を始める。
「ほら、“パーティ申請”送ったよ!」
画面に通知が現れた。《リリア・レイヴンからパーティ申請が届いています》
「じゃ、よろしくね、ハク。パーティリーダーはあたしで!」
「先輩風吹かせてるな……」
「えへへー、ベータ組だからね!」
ハクはその申請をタップし、承認する。
画面の端に小さく、二人のステータスが並んで表示された。
そして、リリアはくるりと振り返り、手を差し出す。
「改めて……さぁ、剣士さん!」
ハクはその手をしっかりと握り返した。
どこか遠くで、風が音を運んでいた。
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