第40話 クラクラする匂い
(ローメの灯りだけを、追う……)
完全に水没した洞窟の、色鮮やかに照らし出された水中。
シェイは先導する灯りに集中することで、喉元にせり上がる恐怖を押し留める。
裸眼の視界はぼやけているが、この目を閉じるわけにはいかない。
息継ぎの場所が限られているいま、パニックになれば正真正銘の『終わり』だ。
(息、ちょっと苦しくなってきたかも……?)
魔術師少女とて、禁域探索に参入すると決めた時からある程度の訓練はしている。
禁域などと気取った名前がついているだけでこの領域は本質的に原生の密林であり、奥へ行くほどマナが薄くなっていく点はある種登山との共通性もある。
つまり体力がモノを言う世界だ。
それを理解していたから、彼女は頭脳だけでなく、体力においても同世代の学院生徒たちよりはるかに抜きん出ていた。
だから、自分の肺活量もそれなりに大きいはずだと自負がある。
あるが、しかし、そんな自負は実際に迫る死を前にして何と脆いことか。
水中では、不安に急かされる鼓動を深呼吸で落ち着けることもできない。
(はやく、息継ぎをしたいっ)
息苦しさは少しずつ増していく。
本当はまだ余裕があるはずだが、大きくなった不安が息継ぎを強く欲している。
(はやく……!)
迫る恐怖に目を閉じそうになったとき、シェイを導く灯りが上に上がり始めた。
二回目の分岐などとっくに通過していたのだ。
少女は逸る鼓動と生存本能に求められるままに、水面へと急ぐ。
呼吸ができるまであと二秒……一秒!
「ぶっ……ぶへっ!?」
待ち望んだ水面へ顔を出した少女は困惑した。
息が全く吸えない。
呼吸ができない。
どうしてだ、もう息継ぎができるのではなかったのか。
口を開き、肺をめいっぱい広げても、入ってくるのは少量の水しぶきだけ。
「シェイ! マスクを外してっ」
「っ!」
思考が恐怖に塗りつぶされる寸前、シェイは先導してくれたローメの声を聞いた。
躊躇している時間は無い。
言われた通り自分のマスクに手をかけ、顔面から剥ぎ取る。
「ぐっ! ふ……っはぁっ‼」
遮るものが無くなり、肺へ大量の空気が流れ込む。
依然苦しいが、空気を吸えた安堵からか少しだけ気持ちが楽になった。
「一度息を吸ったら、今度はマスクをつけ直して、ゆっくり息を吸って!」
「わかっ……た!」
明確な指示に、エリート少女は少しずつ冷静になっていくのを自覚する。
マスク越しでない呼吸では、活性マナの薄い禁域深部で満足な呼吸は出来ない。続けていればすぐに過呼吸に陥ってしまう。
だが現在はそもそもが酸欠だ。
マナの薄い空気でも、一度大きく息を吸うことが呼吸効率以上の効果を発揮する。
いったんマスクを取って、つけ直したのにも意味がある。
潜水したことで、マスクのフィルタは水を含んでいる。
だからいつも通りの量を吸気するのは難しいが、それでも少しずつ吸い込んだ空気に活性マナを添加する本来の役割が消えたわけではない。
「すー……ふ……」
立ち泳ぎしながら、湿ったフィルターを通してゆっくりと息を吸い、吐く。
数秒もすれば、身体が求める酸素を十分に吸うことができた。
「落ち着いた?」
ローメの問いかけに、シェイはコクコクと頷く。
「ありがとう、もう大丈夫」
「良かった。でも、我らに残されている時間はあまりない。ここまで泳ぐのに一分くらい、ここで息を整えるのにもう二分は経つ。すぐ潜らないと水中の灯りが消えてしまう」
真剣な表情で語るローメ。
そして、こちらを心配そうに伺うリコーとミアナ。
(ここまで来たら行くしかないわ、私っ!)
シェイは心中で自分を鼓舞し「よし」と呟く。
「待たせてごめん、行きましょう」
エリート少女の覚悟を伝える言葉に他の三人は静かに頷き、水没洞窟の潜水突破が再開する。
(さっきは必死すぎて、分岐のことを全く気にしていられなかった……)
潜り、泳ぎながら、シェイは自分自身の振る舞いを反省する。
(何かが起きてから意識するんじゃパニックになる。次の分岐は左。絶対に思考から外しちゃダメよ、シェイエタ・ハートシープ……!)
先導するローメを信じていないわけじゃない。
だが彼女の持つ灯りが消えた時、あるいは身に何かが起きた時。
ひとりでも多く生き残るためには、全員が意識しておかなくてはならない情報だ。
だからこそ、彼女もそれをわざわざ共有したのだ。
(身体から『悪魔』を追い出して、普通の生活を手に入れる……)
改めて当初の目的を反芻し、シェイは拳を握りしめる。
(こんなところで、死んでいられない……!)
恐怖が無くなったわけじゃない。
だが、もう少女の喉元にせり上がるような感覚は無くなっていた。
ローメの腰に下がった灯りを追いかけながら、ひたすらに泳ぎ続ける。
(……分岐ね)
さっきまでは永久に続くと思えた洞窟も、冷静になってみれば大した距離ではない。
二股に分かれた洞窟の入り口は、もうすぐそこに見えていた。
ズゥウン、と。
低い振動のような音が聞こえたのはその時。
(地震……?)
水中で揺れを感じなかったのだろうか。
シェイは疑問に思いつつも深く考えすぎないようにし、分岐の左へと向かう。
瞬間、暗闇が視界を塗りつぶす。
煌びやかな水中洞窟は、静かに黒色へ。
そこには、窒息の恐怖以外に何もない。
(灯りがっ……!? でも、進むしか……)
シェイはすぐに冷静になったが、一瞬、視界をブレさせてしまった。
(ローメは、どこっ!?)
先導の少女が腰に下げていた灯りも消えてしまったのか。
それとも自分が向いている方向が違うのか。
左右に首を振っても、生き延びるためにどこへ向かえばいいのか分からない。
(まずい……!)
抑え込んでいた恐怖が解放される。
遠く離れていたはずの死が実感を伴って近づいてくる。
(こんなところで、死ねない……!)
だが少女の決意が、ほんの少しだけ恐怖を押し戻した。
(もう私がやみくもに泳いでも仕方がない。灯りを見つけるか……誰かに助けてもらうしかないっ!)
シェイは息苦しさが増す中、まずはもう一度首を左右に振った。
さらに上下を見る。
灯りはどこにもない。
(あのランプはローメの手元にある道具。マナを燃料に光っているんだとしたら、さっきの地震でいきなりつかなくなることはないはず。ということは……!)
シェイは速くなっていく鼓動の音を聞かないフリをして、身体の向きを直角に、二回回転させた。
(……あった!)
灯りが見えた。
少し遠くなっているけど、やっぱり消えていなかった。
あとはあそこまで行って、一緒に泳ぎ切るだけ。
(でももう、息が……!)
それは冷酷なタイムリミット。
少女の恐怖と焦りは取り込んだ酸素を通常よりも多く、早く消費してしまっている。
距離も稼げていない。
状況は、詰み。
(何が詰みよ! エリートぶってんじゃない、私!)
シェイエタ・ハートシープは自分自身に憤慨する。
(死ぬわけにはいかないって、言ってるでしょっ!)
最後まで抗ってやる。
灯りに向かって泳ぎながら、シェイは右手を前方に伸ばす。
(杖が無いと魔術は使えない。こんなのは学院初年度の教科書に載っている基本中の基本)
あえて自分の知識を自分で読み上げながら、意識を右手に集中させる。
(でもそれは、魔法陣を描いても活性マナをうまくまとめられずに結果不発に終わるから。魔法陣を描くだけなら、理論上、素手でもできるっ!)
シェイエタ・ハートシープは魔術学院の席次一位で、エリートだ。
一度もやったことがなくたって、ちゃんとやればそつなくこなすからこそ、エリートなのだ。
シェイの右手に魔法陣が浮かび上がる。
活性マナの輝きが、暗闇の中でその形を浮かび上がらせる。
(アンタ、あのエルフには言ってたわよね。絶対守るって)
ただ光っているだけでいい。
それはただ、暗闇の中で自分の居場所を知らせる目印だ。
(だったら、私のこともちゃんと助けるんでしょうねっ……!)
エリート少女はガラにもなく、ひとりの青年に助けを求めた。
左手でマスクをずり下ろし、固く結んだくちびるを水の中に晒す。
(アンタの体質なら、理論上は……! でも、もう)
限界。
少女の思考が言葉を紡ぎ切る前に、その身体を誰かが抱き取った。
そして口に重ねられた柔らかい感触。
シェイは鼻から息を吐き、口を開き、全てを受け入れた。
「……!」
ふぅー、と空気が吹き込まれる。
酸素を求めて喘ぐ肺が満たされていく。
そして吐いた息は逆に、重ねられた相手の口の中へと吸い込まれていく。
片や、マナを含む空気を必要とし。
片や、マナを含まない空気を必要とする。
通常ではありえない差がある二者間でのみ成立する呼吸の循環。
(ほんと、クラクラする匂いね……)
心中で悪態をついて溢れそうになる涙を抑え、少女は青年と共に灯りへ向かって急ぎ泳いだ。
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