九十六記_夜のお供
——同日、深夜
「…はぁ」
朧げな灯りに照らされるバロンはロックグラス片手に酒を呷る。彼の夜は長い。それはある事がきっかけで始まった睡眠障害のせいだった。深夜に突然、目が覚めるという症状から始まり、目に見えて睡眠によって疲れが取れなくなっていった。やがて床についても眠れなくなった彼は小金色のそれと夜を明かすようになった。
酒を手放さないのはある種の後悔とも呼べる切っ掛けと目を合わせないためだった。頭が朦朧としていれば、自然と深く考えなくて済む。
いつものように一口、また一口と少しずつ酒を入れて酔いを回していたある時だ。不意に上の階段から軋む音が響き始めた。
上の誰かが起きただけだ、と彼は向けた注意を逸らして、再びロックグラスを傾けようとした。しかし、降りてきたその人を見てグラスを机に置く。
茜色の髪に綺麗な瑠璃色の目をした少女だった。
「ダメだよ。小さい子がこんな時間に起きていたら」
彼は新たちから話だけは聞いていた。寝ている少女がいるという話を。
聞いていた見た目とも一致する。
「私は基本、昼間は寝てるの。お兄ちゃんたちが冒険してるから。私が起きるのは夕方からだよ。昨日はたまたま街に出かけたから起きてたけど」
これは何か事情がありそうだ、とバロンは悟る。しかし、人は誰しも大なり小なり隠し事があるものだ。触れるのは野暮だろうと彼はそこで踏みとどまった。
「そうなんだね。じゃあ、今日はおじさんの夜のお供はこれだけじゃないみたいだ」
彼は少女の言葉にグラスと中の氷を打ち鳴らしながら答える。自然と声色は上擦っていた。もしかしたら、一人で自分と向き合わなくて済む夜を心待ちにしていたのかもしれない。
イブは彼から二つ離れたハイスツールによじ登るようにして座ると鼻から荒い息を出す。
「どうかしたのかい?」
「別に…」
彼女はあからさまに不平を滲ませた声で返答する。
グウゥゥゥゥ。
その時、大きな腹の虫が鳴った。バロンは僅かに含み笑いをする。
「お腹減ってるのかい」
「……」
それには沈黙が返ってくる。ただそれは間違いなかった。この時間まで寝ていたとしたら、夕食は食べていないだろう、と彼は推測する。
「ちょっと待っててね」
その言葉と共にバロンは椅子から立つとカウンターに入ると、屈んで冷蔵庫を開く。その中から卵を三個取り出すと、それをキッチンに置く。流しの下の棚からボウルとホイッパーを取り出してから、卵を割ってボウルの中へ。それをかき混ぜ始めた。
「…おじさん、料理できるの」
その姿を見ていたイブが呟く。
「ちょっとね。君のお兄さんやお姉さんみたいには上手くはないかもしれないけど」
彼はそう言いながら、調理を進める。卵をかき混ぜ終わるとボウルを置くと、吊り下がっているフライパンを手に取り油を敷いてから火にかける。十二分に熱が通るとボウルから溶いた卵を流し入れ、ヘラでかき混ぜながら半熟を目指す。そうなると器用にヘラを用いて折りたたみ、平皿に盛った。
「何作ってるの?」
「さぁ?出来上がるまでのお楽しみさ」
いつの間にかイブの興味はバロンの一挙手一投足に移っていた。カウンターから身を乗り出して、バロンを見やる彼女に彼は道化のように眉根を上げる。
そう言いながら、バロンは放置されていた片手鍋に火を入れ、それが通ると中身を大きなスプーンで取り出して先ほど作った料理の上にかける。昼のパスタで使ったトマトソースの余りだった。
「おまちどうさま」
完成した料理が大ぶりのスプーンと共にカウンターの上に乗せられる。
作られたのは典型的なオムレツだ。
「美味しそう…‼︎」
イブは嬉々として自分の前にそれを持って来ると、「いただきます!」と言って手を合わせてから豪快に頬張った。本人は痩せ我慢していたが、余程お腹が減っていたに違いない。
バロンはパクパクと目を輝かせて、オムレツを口に運ぶ彼女を見ながらそう思った。




