九十五記_セーフハウス
あれから俺たちはバーの二階にやって来ていた。
『今日はここで休むといい』
旅や先の戦闘の疲れもあるからとバロンが気を利かせてくれたのだ。俺たちは明日の日の出(アガルタの人工光源の点灯)と共に『レジスタンス』の本拠地を目指すことになる。隷属者が跋扈する街で休めるのかと疑念を抱いたが、彼曰く隷属者は王宮に続くメインストリートを中心に守りを固めているらしく路地裏に来ることはないらしい。
兵力を集めているというのはどうやら本当みたいだ。バーとして使われなくなってから二年が経つと言うのに調度品に対して埃は積もっていない。
一番大きな部屋をみんなで掃除し、二時間足らずで使えるように整える。
すると「僕は下にいるから。あとはご自由に」とバロンは降りていってしまった。
階段の降りる音がしなくなると楠木は背負っていたリュックサックを下ろしベッドの一つに腰掛ける。
「ったく、『永世中立都市』何じゃなかったのかよ」
「汚いからやめてくれ。まだ風呂入ってないだろ、楠木。…それと少なくとも『永世中立都市』だよ、アガルタは。内乱はどうしようもない」
ただ近郊の街にも全く来ていないのは不思議だった。都市や街に立ち寄る時にはアガルタのことはそこの住人に聞いていたのだ。「あそこはやめた方がいい」という話は一片も聞かなかった。もしかしたら、鎖国の影響で常々中の情勢は不透明だったのかもしれない。黒バラが拡大し始めてからというと十四年前からだ。人が気にしなくなってもおかしくはなかった。
「新さま、イブさんに声かけてくれませんか。『大耳の紋章』でも通じなくて」
その時、扉が開いた。隣の部屋で着替えていたシャーロットさんが帰ってきたのだ。
「あ、はい。分かりました」
『不死の紋章』越しに念話のパスを繋げる。聞こえてきたのはスー、スーという心地よさそうな寝息だった。
「…寝てますね」
「はぁ…、不貞寝だな。お前が戦闘中に怒鳴ったからだろ。イブああいう事されると拗ねんだろ、いつも」
「仕方ないだろ、楠木。余裕なかったんだから」
むしゃくしゃが声色に滲む。
それは相手の洞察を怠るほどだった。戦闘に関係のないことは自動的に頭の中から排斥していた。とにかく自分の命を守ることに必死だった。
髪を掻き上げながら、深呼吸をして気を落ち着かせる。
「そろそろお風呂が沸きますから、イブさんとご一緒しようと思ったのですが…」
シャーロットさんの要件を聞きながら、カードホルダーから『不死の紋章』を取り出す。それを彼女に差し出した。
「俺が原因で怒ってるんだとしたら、俺に起こされるの嫌だと思うので」
以前にもこういうことはあった。確かシャーロットさんに護身術を教えてもらっていた時だっただろうか。イブは俺たちが戦うのを見てすぐできるものだと思っていたらしいのだが、滅法上手くいかなかった。
不貞腐れるイブにシャーロットさんは「すぐできるものではありませんよ」と諭したが、しばらくはムクれてしまって『不死の紋章』の中に閉じこもってしまった。前の時は空腹で耐えられなくなるまで中に籠城したのだ。最も翌日には出来ないことが悔しかったのか熱心に彼女に習っていたが。
…ほんとイブは強情だからな
シャーロットさんが耳に『不死の紋章』を当てて、念話する姿を見ながらそう思う。
しばらくすると空間に円形の歪みが生まれる。中からは不承不承といった様子でマイヤを抱えたイブが出てきた。口を固く引き結び、こちらには一切眼を合わさずにシャーロットさんの手に引かれながら、部屋を出ていった。
「…新、ありゃ相当かかんぞ」
扉が閉まり、足音が遠ざかっていくと楠木が口を開く。
「死なれるよりは随分マシだよ…」
嫌われ役だ。ただ先の戦闘のことを考えると、彼女の機嫌が悪くなるくらいで済んで良かったと肯定的に捉えてもいいのかもしれない。
「ま、でも良かったよな。ここに浴場があって」
もうこの話をする気がないのか、彼は一音おいて話題を切り替えた。
「そうだね」
この建物は一階はバー、二階は宿屋という営業スタイルだったらしい。水回りを考えると逆のような気もするが、店主が建築の際に動線を考えた結果、酒を飲んだ客が上で休むか、泊まるかの運用を想定して作ったようでこのような作りになったとバロンが掃除中に話していた。
武器の手入れや損傷具合の点検をしてから、楠木と雑談すること二十分ほど。
シャーロットさんたちが風呂から出て帰ってきた。イブはまだ熱りが冷めていないらしく「ただいま」もなしに『不死の紋章』の中に籠ってしまった。あの様子だと夕飯は食べないだろう。その内、機嫌が直るのを待つしかない。
イブが連れていったマイヤはシャーロットさんが抱えている。
「今日は紋章の中で寝るそうです」
「そうですか」
シャーロットさんは自身のカードホルダーに入れていた『不死の紋章』を取り出すとベッド横のキャビネットを開け、その中へと入れる。
「お風呂に入っている時も終始、ご機嫌斜めでした。今は少しそっとしてあげた方が良いでしょう」
紋章を誰も身につけていなければ、念話もできない。別にキャビネットに入れたからといって出てくることが出来なくなるわけではない。出てきたかったら、先のように勝手に門を作ればいいだけだ。最も朝まで起きないと思うが。
「じゃ、新。俺たちも風呂入ってくるか。明日は早えしな」
「シャーロットさん、イブのことお願いします」
「承知しました」
ベッドに腰掛けた彼女が会釈するのを見ると俺は楠木と共に浴場に向かった。
その日の夕食は白身魚のムニエルに茹でてから水気を切ったほうれん草。それとライ麦パンだった。




