九十二記_嵐の前の静けさ
作業をし始めて一時間経つとシャーロットさんが起きてきて、さらに一時間、朝食の出来る頃になるといつものようにイブを起こしに行く。何故かマイヤはイブが起きるまで床を離れないので彼女の朝食もその頃合いだった。
それからみんなで拠点の撤収を行い、イブとマイヤは『イブの部屋』である『不死の紋章』のカードの中に入ると探索準備を終える。
昼頃には大都市『アガルタ』に着く予定となっていた。
たった六キロの道のり。とはいえ、高低差があるので正確には六キロとは言えないのだが、その道のりを難なく踏破。アガルタ特有の天蓋からの水流が重鈍な音を響かせ、それが都市の中で制御され下に流れ落ちている圧巻の光景を前にしていた。
ただ、危惧すべきこともあった。道中、魔物の一体も出てこなかったのだ。確かにこういう日もある。相手も生き物だ。ただそれを根拠もなく不穏に感じていた。
「なんかおかしくねえか」
城門へとつながる水道橋に差し掛かった頃、楠木が声を上げた。何かを訝しむ表情から俺と似たような勘を掴んでいることを確かだった。
「お二人も感じていましたか。私も感覚の話もなって申し訳ありませんが、嫌な予感がします。早く都市へ入ってしまいましょう」
その言葉に楠木と二人で頷きを返し、足早に橋を進む。その最中、俺は意識的にイデアを用いて、辺りに警戒を向ける。しかし、橋の渡り切るも大きな異変に見舞われることはなかった。なら、都市そのものが何らかの異常をきたしているのではないかと意識を向けるがそれもない。視界に広がるのは能力を発する前と変わらない。
「杞憂だったのでしょうか」
渡りきった岩場の上でシャーロットさんが呟いた。それに楠木がさあ、といった調子で両手を肩とともに上げる。
「…少なくともイデアに反応はありませんでした」
俺は念の為にと抜剣しておいたそれを鞘に収め、盾を後ろ腰にある取手に引っ掛ける。目の前は城門だ。アガルタに三つある城門の一つ、市街『ドヴェルグ』に繋がるもの。門は開け放たれており、中を見ることは容易だった。
俺とシャーロットさんは城門の両端に近づき、顔だけを壁越しに覗かせる。目を見開いて凝視するのものの変わったところはない。住民や観光客が街の中を歩き、軍人と思われる制服を着た人たちが所々に立っている。日本で暮らしていた俺には異様な光景に映るが街の人は平然としていた。…これがこの都市の普通なのだろう。
「どうだった?」
城門から離れると待っていた楠木に声をかけられる。
「いや、普通だよ。至って平和な街」
「なら、疑心暗鬼になり過ぎてただけかもな。端に運が良かったって認めるしかねえか」
その報告に彼は渋々と言った様子で彼は頷く。
「そうですね。新さま、武装解除して街に入りましょう」
シャーロットさんの鎧はその言葉と共に燃えるように消え、彼女は白のフリル付きブラウスに黒のスキニーパンツと言った格好になる。腰元にはカードホルダーだけが残った。
俺もそれに倣って同じようにする。ただ俺の場合は鎧の下がインナー。上下紺一色になってしまったので紛らわしに白の上着を取り出して羽織る。
「楠木さん、準備はよろしいですか」
「大丈夫だ、シャーロット」
いつも背負っているパラシュートを仕舞い、代わりにリュックを取り出した楠木は返事をする。
「じゃあ、行こうか」
そう言って街に入り込む刹那、怖気が体を包んだ。あからさまに嫌な感じがする。ただ警戒を解いて踏み出した足は止まることなく——俺はアガルタの市街地『ドヴェルグ』へと入り込んでしまった。
…嘘だろ
瞬間、眼前の景色は一変した。




