九十記_アキレス・キッド
「あ、そういや新。これ。頼まれてたやつ」
夕食を終え、楠木が洗い物をしに行く間際にカードから紙面を出して机の上に置く。
「ありがと」
それは新聞だった。定期刊行されているもので俺は街の近くに来るとこれを始め、情報誌を買う、もしくは買ってもらうようにしている。この世界に無線の不可能なこの世界にソーシャルネットワークはない。実世界はアナログで廃れかけているそれもこちらでは相変わらず、全盛だった。俺はお供のコーヒーを作るためにトライポッドに細長いケトルを吊り下げて薪を焚べる。再び食卓に戻ると折り畳まれた新聞を広げた。
一面はある冒険者についてのものだ。二週間前に買った新聞の一面も同じだった。
『謎の冒険者アキレス・キッド、ついに冒険者スコア500到達!』
…もう500か
二週間前が確か450だ。三ヶ月前に現れた超新星。冒険者組合での初登録で中層探索許可の出る大台200を叩き出したことで一時脚光を浴びた。ただ彼はそれだけに止まらなかった。すぐさま300、400とスコアを更新してついには500。あっという間に下層探索許可…つまり上位十パーセントの冒険者の仲間入りだ。冒険者スコアは高くなれば高くなるほど、上がりにくくなる。それなのにこの上昇率は異常だった。
ただその冒険者の名前は分からない。とくダネを取ろうとパパラッチが目撃情報を元に追っかけ回しているらしいが、運よく見つかったとしてもすぐに行方を眩まされてしまうらしい。
そうして個人名も分からない彼は誰がつけたのか『アキレス・キッド』と呼ばれるようになった。アキレスはアキレウス。ギリシア神話に伝わる駿足と無双の英雄の名だ。キッドは子供。つまり、『アキレウスの子供』というわけだ。
…不憫だとは思うけど
ただその異様なスコアの更新速度に俺は一種の嫉妬を感じていた。
俺もそうでありたかった、と。
この世界に来て二年と少し。…あと約五年だ。黒バラが世界を飲み込むまでそれだけの時間しかない。心の中に焦燥が生まれる。このままで大丈夫なのか、と。新聞には黒バラや義勇兵団に関する記事はない。それはラビリンスの人々の不安を煽らないためだ。国によっては国民が自暴自棄になって集団で犯罪に手を染めるケースもある。実世界で起こっている商店街への集団窃盗のように。それを危惧したことだろうと思う。
ただ実世界よりはマシだ。それ専門の情報誌は刊行されているからだった。現状を知ろうと思えば知ることはできる。ただそれは芳しくなかった。少し前にロサイズムにより襲撃があり、今は組織を立て直している途中らしい。
「新さま、深刻な顔してどうされましたか」
いつの間にか沸いていたのか横からコーヒーの入ったマグが差し出される。その時気づく。考え事をしながら、無意識に新聞のページをめくっていたらしい。ため息をつきながら、それを一度閉じて、机の上に置く。
「ありがとうございます、シャーロットさん。…いや、このままで大丈夫なのかってちょっと考えてました」
「ああ、アキレスさんですか。もうここまで…」
彼女も自分の分であろうそれに口をつけて、机の上に置かれた新聞の一面に視線を送る。
「彼は規格外ですよ。…たまに現れるのです、このような多大なる才覚を持ち得る冒険者は。このような人をこの世界の人々は『英雄』と呼びます。比べても仕方のないことですよ。それにここに見てください」
シャーロットさんの指差した小さな枠の中に三十名ほどの冒険者の名前が所狭しと並んでいる。その中には俺の名前もあった。その欄の名前は『有望冒険者一覧』。
「新さまも大多数からすれば、抜きん出た成長速度なのですよ。過大評価は慢心になり、過小評価は可能性を狭めますが、正当評価は必要です。自分をきちんと知って、今何をすればいいのかを考えれば良いかと。…私の口から言うことでもありませんが」
その言葉には暖かさが宿っていた。貴方はもうやっている、気づけているというニュアンスが感じられる。そんな高尚な人間ではないと内心では否定しながらも口にはしなかった。
「まあ、やれるだけはやってみますよ。…五年が経ったその時に一人でも多くの命を救うために」
その後は事前に天幕の中に組み立てていた折りたたみ式の浴槽に湯を張り、順繰りに入った。最後に湯船から上がった俺はジャージに着替えてから拠点から少し離れた岩場に向かう。それはここ一年半ほど行っているルーティンだった。
瞑想だ。アルバートに「イデアが乱れているからやった方がいい」と言われてからやるようにしている。シャーロットさんからも「イデア接続者からのアドバイスは一考の余地があります。したところで悪い影響があるものでもありませんし、やってみては如何ですか」と強く勧められた。
理由としては、イデア接続者は実世界よりはこっちの方が多いと言えど、絶対数は少ないらしくまともな技巧書が存在しない。そんな中でも一定の効力を持っているのが、イデア接続者による口伝らしい。アルバートのアドバイスがそれに当たるのだとすればやっておいて損はない、と言うことらしい。
最近は色々試した結果、一周回って仏教由来のスタンダードな瞑想に戻ってきている。何となく一日の終わりに三十分ほどやるようにしていた。やり始めてから何となく体が軽いような気もするが、目に見えた効果を実感しているわけではない。
…とりあえず、やるかな
適当な岩場の上で胡座を掻くと指を交差させてスマホのタイマーを入れると、手を体の中心に置く。それから目を瞑り、呼吸へと意識を向けていく。そうしているうちに脳髄から何処かへ潜っていくような感覚が生まれ、時間感覚が鈍くなっていき、それに呼応して感覚が研ぎ澄まされていく。ただその感覚に身を任せて過ごすことしばらく。
ピ、ピ、ピピ、ピピ、ピピピピ……
アラームが鳴り、瞼を上げる。少しよろけながら立つと天幕の張られた拠点へと歩き始めた。
男用の天幕を上げると楠木はすでに寝ていた。相変わらず、寝相が悪いようで大の字を少々崩したような姿勢で気持ちよさそうに眠っている。
…うん、今日は俺のところまで侵食されてない
まだマシと彼を踏まないように爪先立ちで歩きながら、自分の床を目指す。テント内にある俺の寝袋を広げるとその中入り、瞳を閉じた。




