九記_白騎士
新を横たえたまま、撤退の準備を整える彼ら。そして、連れ去るため一人の異形が彼に触れようとした刹那。少年を中心として、衝撃波が発生した。一帯に散らばる石ころから鉄骨、さらには巨漢である異形をも吹き飛ばす。
…この姿になるのは久しぶりですね
衝撃の波が止まると彼の前に一人の女性が佇んでいた。絹のように透き通った金髪に瑠璃のような碧眼。鋭い目つきからは歴戦の猛者のような印象を醸している。
…あれだけ戦っていたのに。勘がまるで戻らない。これが平和ボケというものでしょうか
彼女はそんな物思いに耽りながら、左腰に帯びているポーチに手を伸ばし三枚のカードを取り出すと徐に宙に放った。
「来なさい!」
夜の厳かな空気を淑女の声が鋭く打ち破る。すると虚空から胸当て、腕当て、手甲が現れ、あるべき場所に収まる。遅れて腰あてが展開されると、足元には鋼鉄のブーツが瞬いた。
最後に彼女の手元に二つの光体が浮遊し、形を成す。顕現せしは重鈍な趣を醸し出す白銀の細剣に円盾。その姿は中世の騎士を思わせる。
そうして臨戦態勢に至った彼女は細剣を胸の前に突き出し宣言する。
「これ以上、彼に手出しはさせません。貴方達は私がここで屠ります」
騎士はいうや否や、下っ端の一人に接近しところ構わず三度突く。そうしてできた隙に背後に移動。首を貫き、そのまま捩じ切った。
「いやー、困ったなあ。聞いてないんだけど」
後頭部を掻くような仕草をするリーダー格。しかし、その言葉を気にかける事なく彼女は己が剣に顔を反射させ、悔やむ。
…以前までなら、七度の突きができる数瞬だった
騎士は思う。本契約を結んでいなかったら、切り結ぶことすら危うかったかもしれない、と。
奴らの実力を見積もるなら、あの世界の中級程度。だが、今の彼女はそれより僅かに能力が劣る。しかし、かの化け物を早急に切り伏せなければ、この異常を知った増援が来るという事もよく理解していた。
…早さを極限まで上げなければ
騎士は思考の末、胸当て以外の鎧の武装を解き、盾をカードの状態に戻す。黒のタイトな黒ジーンズに白のカットソー、白銀の胸当てという超軽装装備となり…。
刹那、途轍もない速度で踏み込み、異形へと突貫した。
先は不意打ちのような形で討ち取れたが、今回は警戒されている。騎士は剣の間合いに踏み込み、首筋に狙いをつけて細剣を振り抜こうとする。しかし、すでに振りかぶられていた拳が彼女の頭上に振り下ろされた。
…っっ!
避けつつ攻撃するも剣は首元を掠めるに留まる。剣を手元に引き戻すと、間合いを取り…異形と騎士は静止した。
化け物は首元に手をやり、自らの血がべっとりと付いた掌をまじまじと見つめている。
「オ、オオ、オオオオオオオオッ!」
腰をそり、限界まで胸を張って怪物は吠えた。刹那、一足で間合いを詰められ…彼女は吹っ飛ばされた。既のところで僅かに身を引き、直撃こそ免れたためか幾ばくか余裕がある。
騎士は空中で体勢を立て直し、地に足をつけることに成功する。靴が地を滑り、すり減る音が響く。
…ブレストプレートは偉大ですね
彼女は感謝を胸に鎧を撫でる。相手は手強い。それにさらに面倒なのが後に控えている。気まぐれか何かは分からないが戦闘には介入してこない。それは騎士にとって暁光だった。
二対一なら、今の彼女に勝ち目はない。それほどに以前より弱体化していた。
…ここらが限界ですか
「すう…」
騎士は息を吐き出しリラックスして瞳を閉じ、言葉を紡ぐ。
『…Ace of spades』
その呟きと共に足元から煌々しい気流が生まれ、彼女はそれに包まれる。目を開けると眼前には先の化け物の姿があった。しかし、今の彼女には迫る速度は先と比べて格段に遅く見えている。相手の体が地につくまでの刹那の間。その間に構えを作った騎士は、流星の如く一閃で首を切り落とす。体だけが彼女の右半身を掠めて、後方へと抜けていった。
パンッ、パンッ、パンッ
その時、乾いた拍手が空間を反響する。その音の主は例のリーダー格の異形だ。
「さすがは『四騎士のシャーロット』。契約したてでその強さ。さすがだよ」
新の入っているズダ袋の方へと向かう化け物はそう言ってニヒル。
一方、シャーロットと呼ばれた彼女は荒々しい息をしており、立っているのもやっとという様子だった。
「でもさ、もう限界だよね。時間があれば、君が実在化できなくなるまでボコってから、僕の手駒にしたいんだけど…今回は別件があるからね」
その通りだった。先ほどシャーロットが使ったのは『限界突破』の詠唱。体には相応の負担がかかる。
…ああ、彼が連れて行かれる。彼女との約束が守れない
彼女は沈みかける意識の中で悔いる。やがて体の重心がグラつき、全身が鈍化していく感覚が騎士を襲う。
…どうして。最後の願いくらい、世界が滅びるその日までは叶えてあげたかった
——私の代わりに新を守って
それは少女から託された最後の命令。彼女の声が走馬灯のように再生されるその最中、何処からともなくシャーロットの頭に聞き慣れた声色が響いた。
『お願い、シャーロット』
意識を確かにしたとその時、体は前方に倒れかかっていた。騎士は体を支えるために根気で左足を踏み出す。そして、再び枷を外すあの言葉を唱えた。
『…Ace…of…spades』
彼女は加速する体感覚に身を任せ、異形との距離を詰めて細剣を斜めに放つ。そのまま胸部に二度の突き。三度目のそれで地面と縫い付け、左腕を首元に据え全身で体重をかけて拘束する。それからはひたすら化け物の体を突き…正気に戻った頃には絶命していた。
「どれだけ余裕があっても、戦場で慢心はいけませんよ」
血に塗れた満身創痍の体でシャーロットはそんな捨て台詞を吐いた。
『また今度会おうシャーロット』
彼女は後ろからの声に振り返る。だが、それ以上の事は起こらなかった。
* * *
次に目を覚ました時、目の前にあったのは粗い繊維で編まれた布だった。足元動かすとゴワゴワとした感触が伝わってくる。どうやら、麻袋か何かに放り込まれているらしかった。
…!ツゥ
鬱血し、麻痺しかけていた腕はだいぶマシになっていたが、右半身を打ち付けた痛みは健在だった。あの空間では痛みはなかったことからここが精神世界ではなく、現実であることを理解する。次に体が異常に冷えていることを知覚した。あの化け物に連れ去られたのかと、思ったが、袋自体が動いているような感じはしない。
俺は芋虫のようにして蠢き、その袋から這い出る。
そして、目に飛び込んで来た光景に俺は驚愕した。
白銀に輝く胸鎧。細く尖った剣。中世の騎士を思わせる風貌のその人が俺を攫った主犯格の異形に対して逆手に持った剣を突き立てていたのだ。辺りにはあの図体の大きいカタコトの手下たちの身体が散見される。一帯は鮮血に塗れていた。
普通に考えれば、其れは鮮烈な光景だったであろう。しかし、大きく壊された建物の天井から月明かりが降り注ぎ、青白く染まったその空間においては神秘的に映った。
——もしくは、命が救われるその瞬間を目にしたからか
ともかく、その謎の騎士の介入によって俺は危機を脱したのである。痛みこそそのままだが、視界は回復しており、こちらに気づいた騎士が近づいてくるのが分かった。
騎士は俺の前で地に膝を着け、覗き込むように顔を近づけてくる。
「大丈夫ですか、新さま」
人相、そして声に二度目の驚きを得る。月明かりを受けて金色に輝く髪。ヨーロッパ人らしい鼻筋の通った高い鼻。大海を宿すような碧眼。そして少し鼻にかかったハスキーな声。歩夢の世話係と言われていたその人だった。確か、名前はシャーロット・ローレンス。
「シャーロッ——」
シャーロットさん、どうして。と言おうとしたが、彼女の言葉に遮られる。
「新さま、時間がありません。転移します」
俺は何のことかも分からず、あたふたする。そんな俺を他所に腰のポーチから、長方形の紙を取り出す。それを天に向かって突き出した。
『歪曲の紋章よ、理の外に存在せし獣を今一度解放し、我が眼前に彼ノ地へ続く門を開かん』
すると、その言葉に呼応するかのように眼前の空間が捩れ、内側から強大な力に抗うようにして虚空が裂ける。その中には赤と紫、白と黒が入り乱れた何かが渦巻いていた。
「お体、失礼します」
彼女はそう断り、俺の体を肩に抱えて躊躇なくその渦巻く空間に身を投じた。
待って、と声を上げる間すらなかった。
気づいた時にはどこかの屋内にいた。ほんの数瞬だったが、これまで味わったことのない感覚に重度の乗り物酔いのような症状を覚える。今にも吐瀉物が喉元から出そうだった。幸いにもシャーロットさんは俺の体調が悪くなるのも織り込み済みだったらしく、近場にあったソファに俺を下ろしてくれた。すぐにソファいっぱい横たえた俺は耐え難い眠気に襲われ、そのまま目を閉じた。