八十八記_前触れ
——???
「 」「 」「 」
音もなく暗闇の中を一人の男が歩く。すぐ横には緩やかに水流が流れ、遠くからはドドドドと鈍重な音が響いている。彼は何かに怯えているのか、落ち着きがない。水流以外の…例えば、水滴の落ちる音、僅かな衣擦れ、水流に混じる異物が何かに当たる音。それらがすると敏感に反応しながら、革靴の音を鳴らさぬようにゆっくりと、ゆっくりと歩を進めている。
そんな彼は持っている灯りも珍しい。ラビリンスで光源といえば、『ルクス鉱石』だが、彼のそれは『ランタン』だった。
どうやら目的の場所に着いたらしい。彼は足を止めた。手に持ったランタンのダイヤルを僅かに捻り、自身の手元が見えるようにする。それから恐る恐る屈むと手に持つそれを地面に置き、背負うバッグを前に持ってくる。中から紙切れの入った透明なプラスチック容器を取り出すと、それを水流に逆らわぬように器用に流していく。バッグが空になるまでそれを繰り返すと彼は安心したように一息ついた。ランタンによって照らされた最後の容器が闇の中に解けるのを見届けながらいつものように彼は祈る。
…頼む、届いてくれよ
容器が見えなくなると再びランタンの光量を落として音もなく立ち上がる。謎めいた彼は辺りの警戒をしながら、元来た道を戻っていった。
* * *
——ニ〇ニ六年、七月三日。中層域「第五層」安全地帯F
「おーい。帰ったぞー」
「かえったぞー!」
聞き慣れた声ノリのいい声が響く。持っていた寸胴型の鍋を地面におくと、その声の方を仰いだ。するとゴツゴツとした岩場を慣れた足取りでするすると降りてくる二人組が目に入る。
楠木とイブだ。
「おかえり。二人とも」
近くの街に行っていた二人を労う。食料を始めとする必需品の買い出しと…物見遊山だ。大体、街が近いところで拠点を建てるとそうなる。楠木とイブが行くのに特段理由はない。ここ一年『ラビリンス』を下りながら転々とするうちに自然とそうなっていた。
「ただいま、お兄ちゃん」
「おう。新、飯まだか」
楠木の言葉に凛々しい別の声が答える。
「まだですよ。楠木さん。あなたが遅いから、あなたがやることになっていた天幕の設置を私たちがさっきまでやっていたのですよ。…新さま。牛乳、ここに置いておきますね」
物陰から銀の輸送缶を両手で持って現れた少女はため息をつく。その華奢な体躯にしては重たそうなそれを手にしているが、表情は案外余裕そうだった。
「イブはいいのかよ」
「…楠木さん、十歳も下の子と同じ対応をお望みですか」
シャーロットさんは声に呆れを滲ませる。
「私はちゃんと時間になったら、言ったもん。でも楠木いうこと聞かなかったもん」
楠木の発言で共犯に仕立て上げられそうになったイブが不服そうに声を上げる。その手には不相応の大きな懐中時計が握られている。彼は万事休すだ。
「…ジョーダンだ、冗談。あんま怒んなよ、シャーロット」
嫌そうに顔を歪めながら、左手をぷらぷらとさせる。
「あ、そうです、楠木さん。明日、冒険者組合に降ろす素材の解体は終わりましたか」
ふと思い出したようにいうシャーロットさんの言葉を聞いた楠木は首を傾げて、視線を逸らす。するとその後に不自然な間が広がった。
…あ、これ間違いなくやってないパターンだ
その日の調理場の準備を進めながら目端で状況を見て悟る。俺はいつも通り、我関せずに徹し、黙々と準備を整えていく。
「…ふぅ。お願いしますよ、楠木さん」
シャーロットさんは短くため息を楠木に向かってただそう言った。やっていなくても詰めたり、強引にやらせたりしないのは彼の場合、手さえ付ければとんでもない速度で終わるからだ。
必要なのは、せざるを得ない空気感だけである。
「…新、飯どのくらいで出来る?」
魔物の遺骸を広げられる所へと向かう間際、楠木は俺にそう聞いてくる。
「あと四十分くらいかな」
今夜はシチューだ。焚き火は熾火(中火)になるくらいに調整し、具材はすでに切り終わっている。それに必須のコンソメもこの間まとめて作ったものがある。味付けはそこまで時間のかかる物でもなし。実質的に必要なのは焼いて煮込む時間だけだった。
それを聞いた楠木は視線をあさっての方に向けて数度頷く。おそらく頭の中で解体の要領を考えているのだろう。
「おん、終わるな」
何やら見当がついたのか、独り言を発す。
「新、ちゃんとその時間で頼むぜ!」
口角を上げてニンマリしてから元気よくいうと、遥か後方の開けた場所へと駆けて行った。




