八十一記_憎悪の侵食
…冷たい
体が横たえてた。右半身が冷ややかな水に浸っているような…そんな感覚を覚える。数度の瞬きと共に微睡から覚め、左手を支えに上体を起こす。服装は鎧の下に着ているインナーと腰元に吊り下がるカードホルダーだけだ。
『やあ、久しぶり。僕』
それは頭上から聞こえた。そこに視点を向けると彼の顔が迫っていた。
「うぁあ!」
驚き、後ずさる。すると眼前の少年はその反応に満足したのか、ケラケラと軽薄な笑みを浮かべた。そこで全て思い出す。ここは『もう一人の俺』が住まう心理空間だと言うことを。
『一人殺したら、戻れなくなるよ、僕』
あの大男と戦った時に聞こえた空耳も『僕』が原因だろう。炎で燃やされたと思ったら、今度は助け舟を出す。…敵か味方か分かったものではなかった。
『…はー、笑った、笑った』
椅子の背の上部で腕を組み、座っていた彼は満足げな表情を浮かべると椅子から降りた。
『僕』はぴちゃぴちゃと水面で音をたてながら、俺に近づいてくる。
『ダメじゃん。こんな荒い使い方したら。僕、長生きできないよ』
彼はわざとらしく立てた人差し指を揺らしながらいう。
「…楠木は」
俺はそいつに訝しげな視線を向けながら、今最も知りたいことを口にする。『水の紋章』を発動させたが、その効果を見届けてはいなかった。
『あー、彼。大丈夫だよ、紋章で全快』
『僕』はなんでもないようにそう答える。いつの間にか少し離れたところで座り込み、仄暗く一帯に満ちる水面を見やっていた。
興味の赴くままに彼に近づき同様に覗き込むような姿勢をとる。
そこにあったのは一筋の白だった。例えるならそう——水に絵の具を溶かした時の滲みだ。それが黒の水面に差していた。
俺が見ていることに気がついたのか、『僕』は徐に右を向いて白の源流を指差した。目を凝らすとその先に空間の境目だろうか、小さな亀裂が生まれているのが分かる。
思わず、近づこうとすると彼に上着の端を握られた。
『ダメだよ。そっちは』
目も合わせずに少年は口を開く。
『そっちは侵食の端だよ。自分から行ってどうするのさ』
相変わらず目は合わせない。ただ意味深なことを吐いただけだ。
踏みとどまって彼に問う。
「侵食って何だ?」
すると少年は呆れを含ませた大きなため息を吐いた。膝に手を当てて立ち上がると俺の方に振り返る。
『…どーせ忘れるけど聞く?』
彼の言葉に頷きを返す。
『僕、心象紋章使ったよね。実はアレって使えば使うほどある種の真理…人のイデアに近づくんだ。簡単に言うと山神新という個人の魂が人の集合体のそれに上書きされていくってこと。君の場合、近づくのは『憎悪』の感情だ。それが流れ込んでくる。前、きた時はあんな亀裂なかったでしょ。この白い滲みが侵食だよ』
少年は再び未だ細い滲みを指差す。それを見てから見渡すと前来た時にあった小丘も薄暗闇の中で確認できた。
『水の方の根源『献身』は気にしなくていい。あれは代償をその場で要求するからね。そう簡単には侵食させないさ』
その口ぶりから彼がある種、俺個人のイデアを守るための番人であるように感じられる。
『だからね。問題は『憎悪』の方なんだ。個人の器に集合体の憎悪なんて流れてきてみな。溢れ出して大暴走だよ』
『僕』はやれやれといった様子で両手をあげてお手上げだと首を振る。
「だから、呑まれないようにどうこう言ってたのか」
『そうそう。あの炎は僕が小さい時に感じた人への憎悪を現出させてる。あの時の大人への憤りをね。さっきも言ったけど、代償は個人と集合体の仕切りを取っ払うこと。僕が集合体の『憎悪』にどこまで耐えられるかなんて未知数だ。そんな危ない橋渡りたくないだろ』
…確かに
俺は自身の安直な行動を思い起こし、苦笑する。正直、あっちの俺は最悪『炎の紋章』を使えばなんとかなると考えている節がある。あちらに現出するのは極度の疲労感だけだ。まさか集合体の憎悪に日に日に侵食されているなんて思いもしないだろう。
そう考えるとオルグの「あまり使うな」という忠告は図らずも的を射ていたことになる。流石だな、と彼に感心を向ける。
「なあ、『僕』」
『何さ?』
「ロサの男と戦った時みたいにあっちの俺に干渉することって出来ないのか」
『無理』
即答だった。曰く、あの時は俺のイデアから必死に呼びかけたら偶々通じたらしい。そこで新たな疑問が生じる。
「なんであんなこと言ったんだ?」
『一人殺したら、戻れなくなるよ、僕』その言葉の真意だった。
『あーアレはね。僕の場合、人を殺した時の感情の振れ幅が大きすぎると思ったんだ。はい、ここで問題です。僕が人を殺して抱く感情はなんでしょうか』
手を一拍叩いてから少年はいう。答えはすぐに出た。自分へ対する憎しみだ。どのような形であれ、人殺しを俺は容認しないであろう。間違いなくあの大男が死んで悲しむ人間がいる。
『それが答えだよ』
分かりきったように少年はそれだけを口にする。
瞬間、水面が激しく揺れた。いや、違う、空間そのものが振動していた。
『時間だね。僕もあっちの君にことを伝えられるようにちょっと考えてみるよ』
「まだ話は——」
『君は起きるんだ。今回は僕が気まぐれで追い返さなかったから時間が多少あっただけ。楠木くんが待ってるよ』
こちらに向かって手を振る『僕』が見える。空間を軋ませるような振動は加速度的に強くなりなり、視界がブレ始まる。そして、あまりの揺れの強さに俺はついに目を開けられなくなった。




