八十記_賭けの是非
…っ!そうだ、楠木は
戦闘の疲れから体を脱力させようとした瞬間、脳裏がある情景を映し出した。それは茫漠蛾の女王に猛攻を始める前に上空から見た光景。あの時、楠木がいるはずの場所に何故かルクスの明かりがなかったのだ。辺りを照らしていたのは俺の剣身に迸る炎だけだった。
この機を逃すわけにはいかない。
俺はあの時、そう思った。だが、その決断が彼を殺したとしたら…。
底知れぬ恐怖が俺を襲った。その怖気が満身創痍の体に力を与える。
…行かないと、助けに
我ながら、身勝手だと思う。けれど、救われたい一心だった。人殺しにはなりたくなかった。
震え、なかなか言うことを聞かない体をどうにか起こし、剣を地に突き刺しそれを支えに立つ。盾を後ろ腰の取手に引っ掛けると剣の鞘をガチャガチャと揺らし、強引に引き抜く。それに剣身を収めるとベルト帯を剣の柄に引っ掛け、即席の杖とした。
ッカ…、ッカ…、ッカ、ッカ
地面を突く音だけが不規則に響く。戦いを終えた巣窟の中からはすでに喧騒が消え失せた。静寂が戻りつつあった。
「くすのき————!」
虚空に吠える。ただただ必死だった。生きていてくれと願う。
そうして進むうちに眼前に蠢く大きな塊が姿を現した。
幼虫だった。
ただ、それは俺をすぐに襲うことはせず、代わりに首を垂れるように頭を縮こませた。
俺はその個体に一言告げた。
「楠木を探してくれ。仲間と一緒に」
「…キュイ」
短く返事のつもりか鳴き声をあげると方向転換して逆方向へともぞもぞし始めた。
それは俺たちの目的が完遂されていることを示していた。
『女王の権能』。
その効力だ。『捕食の紋章』は自身が下した相手の遺骸を灰と化し、紋章化できない代わりにその権能全てをそのまま譲り受けることができる。紋章の使用は一回きりであの雑食ハナカマキリより弱くなければならない、と制限があるが、それでも破格の性能だった。
つまり俺は今、この『茫漠蛾の巣窟』の王なのだ。他にも幾らか権能があるはずだが、詳しいことは分からない。使われる前に女王を殺してしまったからだ。
しばらくすれば、この場に女王と呼ばれる個体の卵が生まれ、それがこの場を支配するようになる。それまでの束の間の王権だ。
出くわす幼虫や成虫に「楠木を探せ」と命を出しながら、移動し続ける。時間感覚はとうに歪んでいる。すぐだったかも、しばらくだったかも知れない。遠くから声が轟いた。
「キュィィィィィィィィィィ!」
幼虫の鳴き声だ。
その方を見やると成虫の個体が幼虫を掴み、滞空していた。そんな目立つことをしている個体はその一個体だけだった。急いでその方へと向かう。
眼前に楠木の姿が飛び込んできた。痛む体に鞭を打ち駆け寄る。途中で転け、全身に電撃が走るような感覚を覚えたが、這いずるようにして彼へと近づいた。
それは無惨なものだった。
かろうじて息はしているものの左肩は幼虫の大顎によって貫かれており、各所に抉られたであろう傷が目立つ。打撲創はあらゆる所に及んでいた。すでに意識はない。血と粘液に塗れる彼の近くにはムカデの盾の残骸が転がっていた。
…俺のせいだ
あの時、空中で気づいたあの時に地上で蛾を蹴散らせばどうにかなったかも知れない。
楠木の案を飲んで十二層に下って、ロブル支部を目指せばこうはならなかったかも知れない。
刹那、振り上げた左手を地面に叩きつける。
歩夢を失ったあの時と同じ感覚、時間が拡大し後悔の念に苛まれる。
ただ違うのは、今回の引き金は俺が引いたと言うことだ。
嗚咽を漏らす。奥歯に力が篭る。もっと強かったら、襲いくる無力感でどうにかなりそうだった。涙腺が刺激され、視界が判然としなくなる。
その時、幻覚だろうか。白くしなやかな手がどこからか伸びて俺の左手を包み込んだ。瞬きをして視界が明瞭になるとそれは忽然と消えていた。
ただそれが何を意味しているかは分かった。
『今回は手段がある。君自身が助けられる手段が』
僅かに残った温かい温もりがそれを告げていた。
…そうだ、違うことは何も俺が引き金を引いたことだけじゃない
『水の紋章』。ただ本能がそれを使うことを拒む。「痛いのは嫌だ」と反抗する。しかし、今回は俺の倫理が勝った。半ば意地になって震える左手を楠木に向けて言い放つ。
『その身は炎の中で揺蕩う。青の灼熱は悉くを清め、己が身は天変の如く鳴動す』
「紋章解放:収束せよ。『水の紋章』よ」
刹那、超高速で追憶が為された。眼前に傷を受けた楠木と傷の記憶。それが途轍もない速さで再生される。
擦り傷や切り傷それらを受けた時の記憶。
まだまだ余裕そうだ。足取りも軽く、問題なく対応できていた。
幼虫の大顎が背後から肩を貫通した時の記憶。
それは長期戦特有の疲労の蓄積が原因だった。
「こんなもんかよ…!なぁ!」
苦悶の表情を浮かべた彼は獰猛な双眸を蛾に向けていた。
そして、成虫に捕捉され、飛行中の勢いままに足で掴まれ吹っ飛ばされた時。彼は全身に強い打撲を受けながらも、ムカデの盾を支えに立つ。口の中を切ったのか、血反吐を吐き捨てる。
ルクス光を失ったのはこの時らしい。所有者の急激な移動によって制御不能に至ったらしかった。
「ったく、やってくれんな…」
『ヘクトルの紋章よ、神域に至るその堅牢を持って我らを守り給え』
白い燐光が彼を包む。
「シャーロットから借りた隠し玉だ。もう持たねえ。頼むぜ、新」
そういう彼は満身創痍だった。それからは碌に盾も構えることも出来ずに四方から嬲られていた。ただ立っているだけだった。最後まで威圧する眼光だけは消えなかったが、やがて膝から崩れ落ちるとそれも消えた。
それらの追憶と共に体のあちこちを心理性の痛撃が突き抜けていく。そして、より痛烈なものが全身を襲った。楠木が意識を失うときの感覚だろう。体の内側から殴られ、体が破裂するような痛みと共に俺は意識を失った。




