七十六記_裏切り
——ニ〇ニ四年、九月八日、上層域十層『茫漠蛾の巣窟』出口
「バルバロイ団長、『茫漠蛾の巣窟』内で動きがありました」
陣内に斥候に出していた兵が戻り、彼の耳元で囁く。
「…続けろ」
「何者かが巣窟内で茫漠蛾(マヌステロリス種)に気づかれ、彼らが活性化。その際、ルクス鉱石と思われる光を確認しております。また偵察班より二人組との報告が上がっています」
…きたな
バルバロイは確信する。冒険者の中でわざわざ『探索不可領域』に踏み込むなんて気が触れている者はそう多くない。上層域なら尚更だった。出口から死角になる亀裂に身を隠していた彼は座っていた小岩から立ち上がる。
「一帯に散っている奴らに伝えろ…すぐに戦闘できるようにしておけってな…」
彼は同じように亀裂や隙間に潜んでいる部下に指示を出す。
「はっ」
部下はその言葉をいうや否やバルバロイの潜伏するそこから出て行った。そして、バルバロイは驚いた。刹那飛び込んできた光景に。あの部下の姿が岩の角に隠れ、目に見えなくなった瞬間、近くの岩石から血溜まりが広がったのだ。
彼は身構えた。同様に潜むアウレアと共に臨戦態勢に移る。
…ザッ、ザッ、ザッ
地面を擦る音がする。部下の血でできた溜まりを容赦無く踏み、粘着性の音と共にバルバロイの方へと何者かは迫ってくる。姿が露見する。
彼は再び目を疑った。そこに立つ人物は本来、ここにはいない——牢屋で死んでいるはずの人間だった。
「アルバート…」
彼の口から名が零れる。拷問の際に殴り倒し腫れ上がった顔、自白剤を投与した際にできた注射痕は綺麗さっぱり完治していた。バルバロイは息を呑む。
…おかしい
彼は勘繰った。まだ傷のことは良かった。しかし、バルバロイにとって不可解なのはさっきの数瞬だった。アルバートの冒険者スコアは200を少し超える程度、いくらイデア接続者だとしても冒険者スコア400を超える部下を一方的に屠るのは不可能だ。実力に天地の差がある。
「久しぶり、団長。…いや、バルバロイ・ハーロッツ、って言った方が良いのかな?もう君の部下じゃないんだし」
驚愕するバルバロイを他所にアルバートは右手に握る直剣をぶらぶらと遊ばせている。それからは部下の血が滴っていた。彼は全く警戒のない足取りでバルバロイへと歩を進める。
『…烈火の紋章よ、種火より生まれし荒々しき炎よ。燃ゆる悉くを焼き払い——』
——給え
本来、続くべきその詠唱は途切れ、代わりに何かがドッという重々しい音と共に落下する。
地に落ちたのはアウレアの右手だった。
最少の声。気配もなく、前触れもない。周囲と同化していたアウレアの攻撃は完璧な一撃…そのはずだった。ただ現実としてはアルバートが何の気無しに振るった直剣が彼の手を切り落としていた。
「良い攻撃だと思うよ、アウレア。…相手が僕じゃなかったら、ね。ま、君の手がなくなることは決まってなかったんだけど」
アウレアは目を見開いていた。右手ことよりも極限まで鍛えたはずの潜伏能力、紋章すら凌駕する領域に踏み込んだそれを破られたことにただただ驚きを隠せないでいた。
そして、アルバートは言い放つ。
「僕が決めたのはこの場で僕とフランが無傷でいること。悪いね、アウレア。小心者の君には本当に悪いことをした」
その場で固まったままになっているアウレアの横をアルバートが通り過ぎていく。彼は余裕そうに直剣についた血をいつの間にか取り出した大きな布で拭っていた。
「アルバート…テメェ…!」
刹那、バルバロイが加速した。アルバートとの距離を瞬時に詰め、踏み込みと共に抜き放たれた鉈が彼の首元に迫る。
しかし、その刃は空を切った。アルバートがまるでその太刀筋を見切っているかのように僅かに姿勢を後傾させたのだ。相変わらず、顔にはゆとりが見てとれた。
『閃光の紋章よ、光の力、その一端を我が身に齎らさん』
口上が呟くように唱えられる。鉈を横薙ぎし、極度の前傾状態になった姿勢からすぐさま後傾。バルバロイは左足に重心を置き、逆手に持ち替えた鉈をアルバートの死角から切り上げる。
人間の反射速度を超えた一撃。あまりの速さに空間にいぶし銀の軌道が残る。
ただ、本来致命となるべき攻撃も偶然なのか、アルバートの握る直剣の柄に弾かれる。
…あり得ない
バルバロイは紋章によって高速化した思考の中でただひたすらに考えを巡らせる。
現状は彼にとって筆舌にし難いことだった。これまでの人生、戦闘経験、それらが全く役に立たない。予測が効かない。可能性の末端にすら触れることがままならない。彼の理性が叫ぶ。今、起こっていることは夢幻なのではないか、と。一方で、五感はそれが現実だと告げていた。
感覚と知識の食い違い。
いつもなら、そうなると彼は撤退を決断する。解決にはならないが、生き残れば後になって糸口が見えることもあるからだ。だが、今回は異常だった。本能が撤退を拒んでいた。
『殺されるぞ』
眼前の男は目にみえる殺気を放っているわけではない。その佇まい。その不気味さが狂気をバルバロイに感じさせていた。




