七十五記_脱獄
——ニ〇ニ四年、九月七日、???
どこからか滴る水音。薄暗い空間はジメジメとしていて緑色の苔、藻、カビなどに塗れている。そこに半ば捨て置かれた男はあまりにそこにいたせいでその不快な臭いに慣れ始めていた。
「…うぅ……。あぁ……」
床に横たえていた体は硬さを帯び、起こすだけでも一苦労だ。男は壁を頼りに何とか体を起こす。
…今は何日だ
外と隔絶されたそこに長くいた男はとうに時間感覚を失っていた。牢に放り込まれて…拷問を受けて、戻されて…その繰り返し。いつの間にかそれも止み、その終わりと共に食料の供給も途絶えていた。
ひび割れた唇。コケた頬。異様なほどに細くなった手足。男は明らかに衰弱していた。以前の面影は見る影もない。
男は徐に天井を見上げる。いつからかそうして睡魔が襲ってくるのを待つようになった。眠っている間が唯一、体が訴える痛みの数々から逃れる方法だった。
…カツッ、カツッ、カツッ、カツッ、カツッ
その時、いつもと違う異音を男の聴覚が捉えた。
男は思ったやっとかと
頬が不敵に吊り上がる。ぼんやりとした視界を牢の格子の外側に向ける。すると男の牢の前で石畳を弾く音は途絶え、代わりにぬっと影が牢の内に映る。
「…まだ生きておられましたか、主様」
「辛辣だね。君は罵倒しないと会話できないのかい?」
生意気な声に男もしゃがれた声で挑発する。そこには余裕が見られた。…彼女の罵倒はいつもの事だからだった。
「僕がそう選んだんだ。過程はどうあれ。こうなることは決まっていたのさ」
瞬間、カチンと牢の錠が開けられる音がした。すぐさま扉が開かれ牢の前に立つ人物は問答無用という足取りで中に入ってくる。
「おいおい、話は最後まで聞いてくれよ。特に今の台詞回しなんて最高に決まってただろう ——」
「黙ってください。…いつも心配ばかりさせて」
男にはその言葉の後半が聞き取れなかった。声が小さかったからだ。それに絶食によって感覚器官が鈍っていたことがそれを増長させていたのかもしれない。
『大河の紋章よ、破壊と繁栄を導くその力を今ここに、かの者に然るべき審判を与え給え』
刹那、男は空色のモヤに包まれる。擦り傷や打撲痕、裂傷。さらには痩せ細った体が元に戻って行く。そして、最後に男の瞳に虹彩が宿る。
男の目の前には黒と白を基調としたクラシックなメイド服を着こなした凛々しい少女の姿があった。その人は治療が終わったのを確認すると立ち上がる。透き通るような青い髪が揺れる。両手には『回収の紋章』から取り出したのか、男が着るものであろう服が準備されていた。
「ありがと、フラン」
男はそういうとゆっくりと立ち上がり、肩を回したり腰を捻ったりする。その後、汚れ、破れた服を脱ぎ、その少女が持つ服に袖を通していく。
「それじゃ行こうか」
着替えを終えた男は彼女に呼びかける。
しかし、その人は思いもよらぬ形で返事をした。男にケープ(羽織物)を投げつけたのだ。だが、男は当然のようにそれを捕えると何事もなかったかのようにそれを羽織った。
「…アルブレ…アルバート様。その前にご入浴を。お身体が臭います」
少女の口調が冷ややかでお淑やかなものに戻る。アルバートの行動に余程、苛立ちが募っていたらしい。
「そうかな?」
「そうです」
男は少し考えるように宙に視線を泳がせる。
「…ま、それくらいの時間はあるかな。どう転んでも結末だけは決まってるしね」
当然のようにそういうと二人は牢屋から姿を消した。無数の血潮を振り撒いて。




