七十四記_茫漠蛾の巣窟
「…新」
俺を呼ぶ楠木の声に頷きを返す。ちょうど俺たちは『茫漠蛾の巣窟』の入り口、その両端に立っていた。楠木は俺の反応を確認すると足を擦るようにして地を滑らせる。俺もそれに倣って同じようにする。そうして俺たちは『茫漠蛾の巣窟』に踏み込んだ。
巣窟の中に入りきると怖気のする光景が飛び込んできた。天にあったのは数百の手だった。
…あれが茫漠蛾。サクスムエディット・マヌステロリス
種小名を直訳すると『恐怖の手』。見た目がそのまま名前になったのだろう。その羽は一見すると人の手のように見える。
巨大な空間を覆うようにおびただしい量の茫漠蛾が存在し、それぞれが蠢いている。下にはこれまた大量の芋虫が動いたり、その場で止まって成虫の食べ残しに手をつけていた。所々、羽化した殻も散見される。
ガッ、ガッ、ガッ、ガッ。
パラパラパラパラ…。
ザザー。…ザザー。
成虫が岩を食う音。砕けた破片が地に落ちる音、その幼体たる芋虫が地面を這いずる音。そして、モゾモゾという咀嚼音。それしかない。
ここには『地を踏み締める音』が存在しないのだ。
普段と同じ歩き方をすると確実に敵対視される。だから、俺たちは地面を芋虫の蠕動運動(芋虫の身を縮めて伸ばす歩き方)の間隔に歩調を合わせ、進んでいた。
『茫漠蛾の巣窟』の入り口から十層に繋がる出口までの距離は直線距離で3000メートル。しかし、芋虫の跋扈する地では蛇行を余儀なくされた。また、芋虫の移動速度が非常に遅い。それが煩わしさに拍車をかけた。
…けど、ペースを乱すわけにはいかない
理想はこのまま、摺り足を続けて十層に続く出口に辿り着くことだ。しかし、そう上手くはいかない。そう楠木は言っていた。
『あの芋虫の視力は弱い。俺たちを見分けることはほぼできねぇ。…けどその代わり体表の毛とか腹で振動を感知する。どこぞの大蜘蛛と一緒でな。だから、思い通りにいかないと思った方がいいぜ』
肝要なのはそれまでにどこまで進めるかということ。彼曰く、摺り足で誤魔化せるには誤魔化せるが、床に転がる何らかに触れてしまったその時、振動が乱れる。人にとっては微弱でも幼虫にとっては決定的な振動だ。
カッ。
楠木に言われていたことを反芻しながら慎重に足を運ぶ。その時、足の裏が異物を捉えた。
…石だ
気づいた時にはもう遅かった。足を摺っている時に靴底に巻き込んでしまった小石が地面と靴裏に押し出されるようにして前方に弾き出されていた。
すると小岩を食べていた幼虫が先ほどまでの動きの鈍さはどこへやら。頭の部分が素早く動き辺りを見回し始める。
…ごめん。楠木
心の中に罪悪感が芽生える。しかし、それは予期されていたこと。眼前の彼は背にあるムカデの大楯をすでに構え、臨戦体勢になっている。
キュイィィィィィィィィィィ!
幼虫の一体が耳を劈く甲高い音を空間に響かせた。それに呼応して次々と空気を搾り出すような高い音が各所から上がる。その音を聞いた成虫の一部が壁面から剥がれ、自身の羽をはためかせ空中を浮遊し始める。
進んだ距離はおそらく1000メートル弱。残りが2000メートル余りにも長い。しかし、なったものは仕方がない。悔やむのは後でいい。今必要なのはここを凌ぎ、この巣窟を踏破することだ。
半ば自己嫌悪に陥りそうになる思考を引き上げ、急ぎ剣と盾を『回収の紋章』から取り出す。
『ピーラ・ルカ!』
楠木が詠唱を口ずさみながら、ルクス鉱石を遠くに放る。刹那、暗闇の中に光点が生まれ、そしてそれが埋もれていく。茫漠蛾の巨体で覆われる。
蛾の習性だ。いくら暗闇の中に居たにしても遺伝子的本能には抗えない。そして、それは俺たちの作戦開始の合図でもあった。
「新!女王を頼む!」
楠木が飛び交う茫漠蛾を盾で払いながら叫んだ。
「ああ!」
俺は腰元の剣を抜き放ち、駆け出す。侵攻の邪魔になる幼虫や成虫を叩き切りながら、視界を確保しドームを観察する。すると右側の奥の壁面に佇み一層大きくさらに特徴的な触覚を四つ持った個体を発見する。
…見つけた
『俊敏の紋章よ、獰猛なる捕食者の疾くを我が身に宿せ』
間に宿る紋章の一つが淡く光る。瞬間、脚部を中心に力が湧き、体が軽くなる。そのまま、女王と呼ばれる個体に向かって俺は走り出した。




