七記_急転
…なんで、どうして
後ろから鈍い足音が迫る。恐怖と焦りで心臓が高鳴る。
…学校に行って、帰ってきて、診療所に行って。スーパーに寄って。あとは家に帰って寝るだけだったのに
両腕を必死に振って走る。唾を飲み込む音が脳まで響く。
後ろに首を振ると、あの人ならざる人の形をした異形が目に入った。
ことはほんの少し前に遡る。
——同日、二十二時三十二分
俺はいつものようにたっぷり三時間ほど黒岩先生に医学、薬学に関する教授を賜り帰路についた。その時になって「冷蔵庫が空であること」を思い出したため、最寄りの駅にある二十四時間営業のスーパーで買い物を行う。
後は帰るだけ。一日のタスクの大半は終了だ。両手に有難い重みを感じながらそう思う。
いつもこの時間は心地が良い。明日になれば、またやることも増えるだろうがそれはそれだ。なんで遊ぶ時間を使ってまでこんなことをやっているのかと逃げ出したくなる時もあるが、そういう時はいつも「目標」が助けてくれる。
…多くを救う、あんな惨めな思いはさせない
それが脳裏で木霊する。目標があるうちは頑張れる。
俺は刹那の充足感に浸っていた。
しかし。いや、だからだろうか。周囲が明らかに異質な雰囲気を放っていることに全く気が付かなかった。
本能的それに気づくと共に辺りの状況、情報を意識的に収集し始める。
…ダン、…ダン、ダンダン
そんな鈍重な音が空間を反響していた。時を追うごとに音と音の間が詰まる。明らかにこちらに向かってきていた。
不気味に感じた俺はそれから逃げるようにして歩速を上げる。
刹那、眼前から強い衝撃が地面を伝わった。その振動の中心たる場所に目を凝らす。
瞬間、飛びこんできたのは異様な光景だった。
アスファルトの亀裂の中心、そこに足首まであるフード付きのコートに身を包んだ長身の人型。しかし、項垂れていて顔はよく見えない。小道に設置されていた街灯が逆光となり、それを一層強めていた。
…明らかに人じゃない
直感した。夢想的ではあるけれど、人が発する衝撃でアスファルトが砕け散るなどという芸当が出来ようはずもない。それにそのヒビの広がり方からするに空中からほぼ垂直に降ってきたのだ。
俺は後退る。触らぬ神に祟りなし、だ。
トン…
その時、背中に何が触れた。それはとても冷たくて——まるで金属のようだった。しかし、地に落ちる影は人の形だ。恐る恐る見上げ、俺は認識した。その人は顔に薔薇の花を咲かせていた。比喩ではない。顔の前面が一輪の薔薇で覆われているのだ。花が顔にめり込むように咲き、その下からは顔全体に根が張られているような筋がいくつも隆起していた。
衝撃、戦慄、焦燥。
同時に感情が湧き起こり、俺は硬直を余儀なくされた。
瞬間、薔薇の花の少し下にある所が歪み、音を発した。
「イトシイヒト。…ミツケタ」
その歪な声に心臓が跳ねた。明らかな危機がそこにあった。
…ここにいるのはやばい
逃走本能からか、気づいた時には逆方向に全力疾走していた。しかし、その方にもヤツはいる。先ほど空から降ってきた方だ。
…どうする
眼前の異形はノロノロと体を揺らしながら、俺に手を伸ばしてくる。しかしその速度は尋常ではない。ぬるりと動いて見えるというだけだ。
捕縛、もしくは殺害。
その選択肢が脳裏に浮かぶ。ただでは済まないことだけは確かだった。
異形が迫るにつれて、心臓は早鐘を打つ。そして接触の刹那、俺では本来し得ないはずの動きを体がやってみせた。買い物袋を食材ごと化け物の眼前に投げつけ、その間に股下のわずかな間に体を滑らせて包囲を脱してみせたのだ。
俺はすぐさま体勢を立て直し、駆け出す。懸命に走りながら、頭で対策を思案する。
…とりあえず、撒くしかない
脳内に周辺の地図を展開する。この辺りは小学生の時、よく隠れん坊の舞台になった。だから、人一人が横になってギリギリ通れる路地まで覚えている。
刹那、懐かしさを覚えるが俺は即座に払拭する。今はそんな場合ではない。
…どうする
しゃかりきに走りながら、脳を馬車馬のように回転させる。
…交番に駆け込むか?
いや、それはない。この時間は夜間パトロールに出ていたはずだ。行くなら、管轄の警察署。ただここからだと距離がありすぎる。
逃走を計る間もドンドンという狂気の音が着実に迫る。
…ここは確か
俺は差し掛かった横の塀を飛び越える。閉ざされているはずの壁の後ろには剥き出しの細道が連なっていた。そこは区画整備のために閉鎖された路地だと俺は知っている。
姿を見失ったからか、異形たちの足音が止まる。だがそれも一瞬だった。
後方に響くは破砕音。コンクリの壁は刹那の間隙で瓦礫と化した。
…力技過ぎるだろ
運がいいのはいくつか曲がり角を隔てていたこと。俺をすぐに捕捉するのはままならないはずだ。
…交番に立て籠もって、通報。それしかない
運よく警官の一人もいれば、儲け物。最悪、巡回から帰ってきた彼らと鉢合わせることができる。一つの解を頭に導き出した俺は思考を止め、逃げることだけに集中した。
…この次が右。その後、二つ先の路地を右。その次は曲がってすぐ見える角を左
走りながら、進行経路を反芻する。多少大回りにはなるが、複数回の小道の経由で撹乱を試みる。僅かでも距離を離したかった。
…次は大通りに一度出て、向かいの路地を
しかし、それまでだった。すでに大通りの方に巨大な化け物はいた。
ほんの逡巡。コンマと呼ばれる僅かな間、俺は驚愕によって固まってしまった。気づいた時には右腕前腕を掴まれ、宙吊りの状態になっていた。恐るべき速さだった。それを認識したのは腕に痛みが走ったからだ。
…あの巨体でなんていう動きをするんだ
心のうちで毒づくが、それも次第に大きくなる右腕の痛みで掻き消されていく。身長三メートル近い化け物の腕に吊るされた俺の体は完全に地から浮いていた。どれだけもがいても爪先すらかすらない。痛みを堪えるために奥歯と瞼にぎゅうと力が入る。
そうし続けてどれだけ経っただろうか。激しい痛みが急に引き始めた。いや、違う。腕が麻痺し始めたのだ。身体的には深刻な状態だが、痛みが軽減されたおかげか多少の余裕が生まれる。
「イトシイシト」
「イトシイシト、イトシイシト」
怪物の声に呼応するように俺は重い瞼を引き上げる。僅かにできた隙間からうっすらと辺りが視認できた。全体としては真っ暗だが、所々青白い明かりが差している。
その時、ポツンと何処からか水音が反響した。どうやら俺は痛みに耐えている間に大きな空間に連れて来られたらしい。
「あんま雑に扱うんじゃねえよ、デクの棒がよう…」
その声に異形が反応して、体の向きを変える。それと時を同じくして声の主が目に入った。他二体に比べて明らかに流暢な日本語。それが事の主犯格であることを思わせる。それに身振り手振りも人間味に溢れていた。しかし、それもまた異形なのは間違いなかった。顔のあたりには薔薇を思わせる花弁の輪郭、それに胃のあたりが恐ろしく細く見える。
「あーあーあー。これ右腕だいぶ効ちゃってんじゃないの。これだから、急造品は…。降ろせ、降ろせ。死んじまうだろうが」
すると捕縛していた異形が急に手を放した。俺は落下に対して受け身とるべく脳から指令を送ったが、同じ姿勢を長くとっていたせいか、体は全く反応せず右側面に強い衝撃を受ける。
…やばい、呼吸が…。深く、深く吸わないと
肺に何らかの影響があったのか、呼吸が浅く不規則になる。ただでさえ、ぼんやりとしていた視界は痛みから生じる涙によって滲む。さらに落下時、口を噛んでしまったようで血の気が口内に充満していくのを感じた。
「お前はっ…ハァ。言っても分からんだろうからいいや。君、生きてるか」
呆れ声と共に主犯格の化け物が手で俺の頬を軽く叩く。真冬の鉄のような冷ややかさが頬に伝わった。
「うぅ…」
「生きてるな。よし」
予想外の冷たさに息を漏らしてしまった。それを生存の意として受け取ったらしい。
「持って帰るぞ。///、/////、/////………」
体が限界を迎えたのか、耳が急激に遠くなる。瞼も次第に重くなり、やがて視界は暗転した。