六十九記_龍の氷穴
…ヴー…ヴー…ヴー
…フォン、フォン、フォン
昼休憩から二時間ほど経った頃、小さな異音を鼓膜がとらえた。その音に注意を向けながらも歩を進める。森から急速に色彩が薄れていき、ダークトーンに移ろっていく。先ほどまでの暑さは何処へやら。辺りはいつの間にか冷ややかな空気が充満していた。おそらくそれが原因だろう。うっすらと霧が一帯を覆っている。
「楠木、これは…」
辺りに立ち込める不気味さに躊躇する俺と違って、彼の顔に迷いはない。
「間違いねぇ。近づいてるぜ『ウォクス・ドラコニス』に」
俺の呟きへの答えか、はたまた独り言か。どちらとも取れるそれを発しながら、楠木は地面から隆起した木の根を飛び越える。すると腰元から紐でぶら下がるコンパスを手にとった。
…イブ大丈夫かな。シャーロットさんは…
それは突然だった。しかし、何気なく湧いたその情動は瞬く間に肥大し、俺を不安の渦中に突き落とす。シャーロットさんとの繋がりは感じるけど、それは安全の保証というじゃない。イブについては全く分からない。
「方角は…っと。南、よし。新、魔獣とかの気配ないよな」
ちょうど追いついたところで声をかけられる。
「ああっ…大丈夫。問題ないよ」
びくりとして語頭が不自然に上がる。言われるまま瞬時にイデアを用いて周囲を見やった。幸い、赤の警戒は視界に現れていない。
「こんな視界不良の中の戦闘なんて勘弁だからな。それで、どうかしたか」
コンパスを再び吊るさげ、こちらに向かって囁いた。
「なんでもない」
逡巡湧いた気掛かりを脳裏に押し込んで平然を装う。まずは自分の安全。イブもシャーロットさんも心配だが、まずは自分がここから脱出することが第一だ。思考とは裏腹に喉元に込み上げるそれをググッと押し込む。
…まずは自分、まずは自分だ
言い聞かせるように胸中で独言る。
「心配なんだろ。シャーロットとロサイズムから保護した子、イブちゃんだっけか」
「……まぁ…」
楠木は当然のように問うてくる。それほどに表情がわかりやすかったのかもしれない。
「分かるけどな、俺たちが帰るにしても随分先になる。…追われてるからな。新には悪りぃけど、うまくやれてること祈るしかねぇよ」
彼は俺の肩を二度叩くと前を進んで行った。
どこかモヤモヤとしたものを抱えながら、歩を進める。事実できるのはそれしかなかった。
それから逸る気を限りなく抑え、周囲の状況を吟味し続けることさらに二時間ほど。眼前には大口を開けた洞穴が姿を表していた。中は見通せない。しかし、その暗闇は薄らと青を帯びていた。氷穴の領域、その入り口で聞いた奇妙な音は一層強まり、一帯に鳴り響いている。
「新、そろそろ武装しとけ。中は閉鎖空間だ」
「…ああ」
ウエストポーチから楠木がルクス鉱石を取り出す。体力温存のために外していた鎧をすぐさま『集散の紋章』を起動して纏う。遅れて自分のルクス鉱石を取り出して、詠唱。暗闇に入る用意を整えた。
「準備はいいか、新」
「…大丈夫」
武器に手をかけながらそう答えると、彼は頷きを持ってそれを汲み取り俺たちは氷穴『ウォクス・ドラコニス』に入って行った。
暗闇をルクス鉱石に先行させながら、進むことしばらく。目の前に青白い光点が生まれる。進むにつれてそれは急速に大きくなり、ある程度の大きさで止まった。空間の入り口となる場所には長年、人が踏み入っていないのか何重にも重なる蔓に覆われていたのだ。
身をくねらせてその間を潜り抜けると…
サクッ
地面を踏み締めると霜柱を潰したような音が響いた。だが、足元には何かが跳ね返るようなそんな感触がある。恐る恐る足を上げると正体に至った。それは氷結の草だった。触ると冷たさの中にわずかながら、生命の暖かさを感じる。
「すげーな。ここ」
楠木が呟く。開けた空間は先ほどの光点と同じように青白い光で照らし出されており、その中心には大きな濃い青色をした樹木と思われるものが鎮座していた。しかし、その表面は粗い氷のようにも見える。根本は薄らと見えるだけだ。ただ、そこには川らしきものの流れがあり、俺たちが昼頃にいた地点よりはかなり高い場所にいることは分かる。
「早く行くぞ、新。あと寝るまで二時間弱だ。さっさと拠点に使えそうな穴を見つけねぇとな」
俺はそれにこくりと頷く。
程なくして異様な光景に目を奪われつつも、早々に辺りの探索に移った。
どうやらこの氷穴には下に下るほど、生態系が豊かで上にいくほど植生がない。動物の動きもそれほど活発でないことから上部にある複数の窪みから拠点を見出すことになった。
…眠いな
『ウォクス・ドラコニス』の浅層の探索で一時間、洞穴探しですでに一時間。時刻は六時を回っていた。この二週間近く相当な早寝を繰り返して来たからか、この時間帯で瞼が重い。
「新、そっちはどうだ」
目を擦りながら、こちらに近づく楠木を見やる。
「候補は三つ」
「俺は二つだな」
彼は右手の人差し指と中指を立てて俺の方に突き出してくる。その後、双方の候補を見て周り、あの便利な布との比較を行い、拠点とする洞穴を決めた。…やはり、所有者に軍配が上がる。
洞穴に幕を垂らし、近辺に転がっている手頃な石を集め、『回収の紋章』に保存していた金属製のポットや折りたたみ式のテーブル、テントなどを取り出し、簡易的なキッチンを作成する。
一通り拠点としての設備を整え終わると、そこで肌寒さを意識した。『あの布』で遮断できるのはあの布の及ぶ範囲だけ、周りの青黒い岩石からの底冷えはどうしようもなかった。
「一旦あったまんね?」
「寒いしね」
それから一旦、拠点を出て可燃材探しへ。外から入り込んだ枯葉や枝、蔓などが壁際に固まっており集めるのにそう苦労はしなかった。
パチッ…パチパチ
時刻も時刻ということで今日は楠木のもつ携帯食料を夕食とすることに。
「なぁ、楠木」
「なんだ?」
ボソボソと水分を持って行かれるそれを食べながら、話しかける。
「なんで、こんな面倒な場所を拠点にしたんだ?」
「そりゃ。今、お前が言った通りだ。『面倒臭いから』だ」
楠木は固形食を口に咥えたまま自慢げに指を鳴らす。これまで強行軍だったこともあって、何度聞いても「今は説明できない」の一点ばりだった。
「ま、その辺もそろそろ話してもいいかもな。飯食ったら詳しいこと話す」
彼はガリっと棒形の携帯食料を噛み砕き、全てを口内に収める。するとトライポッドに吊るされたケトルに手を伸ばし、手近なコップにお湯を注ぐ。
「新もいるか」
「ああ、頼む」
床に置かれた自分のコップはすでに空だった。それに注がれたお湯を啜りながら、物思いに耽る。
…やっと、か
ここが十一層と判明してからの一週間、楠木の動きには迷いがなかった。言動や行動から現実的な逃走兼帰還計画を持っていることは容易に想像できた。俺はそれをやっと聞くことができるのだ。
俺の心は強い高鳴りを覚えていた。




