六十八記_ダグラス大森林
——ニ〇ニ四年、九月二日、上層域十一層「ダグラス大森林/南西部」
動けるようになってから一週間が経つ。あの大男による左肩から腹部にかけて走る傷もほぼ塞がり、戦闘への支障も無くなりつつある。切り傷が皮膚の深いところまで到達しなかったことが功を奏したようだった。
この一週間の移動距離は、百六十キロほど。直線距離にして約四十キロ。辺りはのどかな森から草原を挟み、段々と色彩の入り乱れる樹海へと様相を変えていた。高度が上がり、天井の発光体との距離が近くなったからか暑さは増し、立っているだけで汗が滲む。救いなのは近くに冷たく、幅広の川が流れていることだった。『ウォクスドラコニス』…俺たちが目指している十五キロほど先の氷穴から流れているものだ。
半ば確信できるのはこの一週間に渡る探索の中でどこにいるのかが分かったからだった。
今いるのは上層域十一層のダグラス大森林、その奥地だ。その層の中心都市からはかなり遠く、小さい集落に行くにしてもここからさらに四十キロはある。安全性の担保される『都市』と呼ばれる場所にはさらに三十キロ近く。まさに俺たちは『前人未到』と冠すべき地にいるようだった。
今日の目的は樹海にある氷穴、『ウォクス・ドラコニス』に到達し、キャンプを設置すること。今後の詳しい話はそこで腰を落ち着けてすることになっている。
「だ〜…、あっつ」
昼食を摂るために川辺の岩に腰掛けると楠木が項垂れ、だらしない声を上げる。それまでどうにか暑さに抵抗していた俺も彼に釣られて妙にそれを意識する。重々しく小岩に腰掛けると体が不思議とダルさに浸された。
…気の持ちようで変わる
その言葉を身をもって体感していた。もしかしたらあの言葉は常夏から齎されたものなのかもしれない、とくだらない考えが浮かぶ始末だ。近くには冷たい川。正直、水浴びをしたい気分だが、ここがラビリンスである以上そうもいかない。
水浴びをしている間に魔物に襲われるなど溜まったものではないからだ。だから、俺と楠木はそれぞれ顔を洗ったり、上から水を被ったりして気休め程度の涼感を得ていた。
体から水気が取れると昼食の用意に移る。…とはいっても今朝作ったものを紋章の中から取り出すだけの簡単な作業だが。
「相変わらず、うめぇな」
「それは何より」
今日はバラ肉と玉ねぎを炒め、コンソメで味付け。それと一緒にバジルの葉を挟んだバゲッドサンド。随分前に作った生姜焼きの素材のあまりだ。仔細は知らないが『回収の紋章』の中には時間の概念がない。初日に予期した通り、買い溜めしていた食材に少なからず助けられていた。
「ご馳走さん」
楠木はさっさと食事を済ませると、立って体を軽く動かし始めた。
「なあ、新。早く氷穴まで行こうぜ。暑くて敵わねぇよ」
それを聞いて、心中で同意。手元に残っていたサンドを三口で放り込んで咀嚼。すぐさま飲み込んで口の中を空にする。
「そうしようか。俺も実は…結構、しんどかったんだ。確か、氷穴に入ったら行き止まりの岩場を探すんだよな」
あらかじめ楠木から聞いていたことを確認の意も含めて口にする。
「ああ、そうだ。できれば、植物が生えてないとこがいいよなぁ…」
彼は天に伸ばしていた手をぶらりと下げて、こちらに向き直る。
植物のある所は魔物や敵性生物の餌場になっていることもある。いくらあの布であらゆる物を遮断できると言っても習慣的にそこにいく動物を欺くことは難しい。俺は楠木の発言を汲み取りながら、会話を進める。
「よしっ!急ぐぜ」
「それはいいけど、足元掬われないように気をつけないと。…楠木も言ってたけど、俺たちにはあんまりこの層の敵と戦える余裕がないからな」
高揚を露わにする彼に釘を刺す。実際、これまでどうしても避けられない戦闘が二度あったからだった。
一度目はトラ(パンテラ・ティグリス・ウーンデキム)。まさにトラと言ったらこれという見た目でちょうどそのトラの狩が終わった時に出くわしてしまい、襲われた。おそらく獲物を横取りされるとでも思ったのだろう。
二度目は大きなハナカマキリ(ヒュメノープス・コロナタス・サングィス・レケンティス)。ハナカマキリと言えば擬態して昆虫を捕食するが、このサングィスは肉も食べる雑食だ。俺たちはこの敵性生物に捕食対象として魅入られてしまったらしくこれまた突然、襲われたのだ。
双方苦戦を強いられた。装備、能力が不足する中、苦戦で済んだのは楠木の発掘屋としての知識と洞察力によるところが大きい。『種』としての傾向と『個体』としての分析。それらに裏打ちされた素早い指示は戦闘に有利に働いていた。
「急ぐんだろ。さっさと行こうぜ」
少し離れたところから彼の声が響く。それに手を上げて答えると小走りで楠木の元に向かった。




