六十七記_水の紋章
「それで、お前そっちの紋章はどんな効果してんだ」
美味い美味いながら料理を食べ、パンを頬張り一段落。食事中に俺の『聖堂事件』の話になり、そこで手に入れた紋章の話に波及したところだった。
…そういえば、『水の紋章』の方は俺も知らないな
重ねて置かれた一対のグローブ。『炎の紋章』の刻印されたメモリア鉱石の宿るそれの下から『水の紋章』が仄かに銀をちらつかせている。ただ、使って確かめるのは代償が高すぎる。一回戦目のオルトロスの時も二回目の黒炎を帯びた時もとてつもない疲労感に襲われたのだ。知りたいにしても緊急時にやることではない。
「なあ、新。それ試そうぜ」
しかし、そう判断した直後、楠木がそう打診してきた。
「いやだよ。これ使うとすごい疲れるんだ。一日、二日じゃ疲れが取れない」
「そっか。因みにどういう風に使ったんだ」
「上層で『ロサイズム』の拠点で番兵のガーゴイル…オルトロスとやり合った時に一回。それとさっきその追っ手と戦った時…」
「そうじゃないんだよな、使ったのは一節、二節、それとも三節か」
彼が気になっているのは「上層でオルトロスとやり合った」だと思ったのだが、楠木は何やら他に知りたいことがあるらしく眼前で唸る。そのあとに発された質問に奇妙だな、とは思いつつも素直に答えた。
「三節だ。二回目は…いつの間にか」
すると楠木は俺の紋章、心から生まれたという意味で『心象紋章』と呼ばれるそれの概要を語り始めた。どうやら普通の紋章とは違って一節から最終節まで詠唱して紋章を起動するのではなく、一節、二節、三節それぞれに別の能力が備わっていて、二節、三節と詠唱が増えるにつれ身体の負荷も上がるらしい。ただ能力に「コンセプト」があるらしく一節の詠唱でそれとなく傾向は分かるみたいだった。
「ならやってみようかな」
それなりの疲れで済むのであれば、と楠木の提案を最終的に了承する。もしかしたら、戦闘の幅が広がるかも知れない。食事を終えた後、近くの清流で洗い物をしてから実験を行うことになった。
ゆっくりと深い呼吸を繰り返す。それと幾度か行った後、右手でグローブを纏う左手を摩る。地を踏みしめて辺りを確認する。空は相変わらず明るい。足元には芝が広がっており、何かあった時のために洞窟を覆っていたあの布を手に持つ楠木の姿が目に映る。
瞳を閉じ、周囲の情報をシャットアウト。気持ちが整うのを待つ。
…やるか
瞼に力を込めて目を見開き一節の詠唱を開始する。
「その身は炎の中で揺蕩う、収束せよ『水の紋章』よ」
唱えるも何も起こらない。しじま、ざざっと風が草を撫でる。刹那、痛烈な痛みが胸をついて抜けていった。瞬間的な痛みだっただけに何が起こったのか判然としない。
俺が自分の置かれた状態に困惑していると楠木が駆け寄ってきた。
「新、これ!治った、治ったぜ」
そう言って片足立ちになって俺の方に左足を見せてくる。そこにはあるはずのものが綺麗さっぱり消えていた。そう、あの楠木がさっき出かけていった時につけた引っ掻き傷だ。
「お前はどうだった」
再度、地面に足をつけた彼は俺のことを聞いてくる。
「一瞬、心臓がチクってしただけだ」
「大丈夫かよ」
「もう大丈夫だ。ほんとに痛みがあったか分からないくらい一瞬だったから」
ジリジリとした違和感だけが胸に残っていたが、それも急速に消え去っていった。
楠木曰く、「対象の外傷を治し、その痛みを心理性のものに置き換える能力」だろう、とのこと。ただこの能力の多くに共通することとして「傷に応じて相応の痛みを置換する」というものがあると言っていた。
「さっきの話だけどな。…どれだけ誰かが助けを求めたとしても、最後は自分で決めろ。…それを背負うのはお前なんだからな」
寝る間際に楠木は俺に背を向けてそうボヤいた。しばらくして彼は寝息を立て始めたが、俺には彼に訪れたであろう眠気が一向に来なかった。あの言葉が耳から離れなかったのだ。
…まるで死神になったみたいだ
横たえた身体のまま、眼前に左手を持ってくる。そこには『水の紋章』を宿したグローブはない。しかし、腕や指の動きが重たくなったように感じる。身を仰向けにして左腕をテントの上の方へ翳す。
これからこの手で誰かを殺し、誰かを救うことになるかもしれない。いや、ラビリンスを下る以上必ず、その時に出くわすはずだ。
俺は期せずして他人の「死」を操れるようになる力を手に入れてしまった。まるで俺自身が黒バラになってしまったように感じる。
…なぁ、歩夢。俺はその時どうしたらいい?
虚空に問いを投げかける。当然答えはない。一時して左腕が重くなり、額に手の甲をつける。そうこうしているとやっと眠気が瞼に充満し、数度瞬きをすると寝に落ちた。
* * *
——ニ○ニ四年、八月二十八日、中層域二層「逆牙の渓谷」
…見つからないですね
辺りがよく見渡せる岩場に立って双眼鏡を除くも成果はなし。遥か下を流れる沢の音が空間を木霊し、胸に立ち込める空虚感が増長されているように思う。
新とのつながりを感じると言ってもこれだけ離れてしまうと微かなものだ。どこの層にいるのかも分からない。『双竜の滝』の底は冒険者組合で探索不可領域に指定されている。誰も到達したことがないのだから、どこにも情報がない。頼れるのはそこに落ちたという事実だけ。その唯一の手がかりを手に私は『双竜の滝』の直下の座標を中心に探索を続けていた。
その時、彼の分の『アトラスの紋章』を借金してでも買っておけばと出鱈目なことが脳裏を過ぎる。しかし、そんなことは無理な相談だ。上層から転落するなんて予想が事前に出来るわけもない。
私は刹那、浮かんだ思考を即座に切り捨てた。
荒唐無稽なイフがこの数日浮かんでは消え浮かんでは消えの繰り返し。
その蟻地獄のような茫漠さから解放されるには彼らを見つけ出す他ない。
…歩夢様、貴方様との約束がありながら
苦虫を噛み殺すように奥歯に力を込める。ただそれもすぐさまやめた。
…後悔なんて後でいくらでもすればいいのです。今は僅かな時間が惜しい
溢れる思考に栓をして、私は登った岩場を下る。
それから再び彼らの捜索に時間を費やした。




