六十五記_僥倖
——ニ〇ニ四年、八月二十六日、??層『????』
「ったく、動きにくいっての…」
楠木は足元に茂る丈の高い植物に文句を垂れる。ただ、今が斥候の段階だという自覚はあるようで声を荒げることはなかった。
あの転落から三日が過ぎ、予定通り俺たちはこの層の探索に乗り出している。未だ体は痛むものの傷は塞がり始めており、普通にしている分には支障はない。ただ激しい動きには難があり、戦闘行動は無理そうだった。それに体の調子が優れないからか、イデアとの接続にも不調を感じる。ロサの男との戦闘時の攻撃予測の過剰使用も祟っているのかもしれない。
しかし、前方を歩くのは当然俺だ。いざという時に戦うのは俺だし、楠木は彼にしかできない重要な役割がある。現在いる層と正確な場所の特定だ。今も後ろでコンパス片手に紙に進んできた道を書き込んでいる。
俺はなるべく敵性生物に会敵しないよう祈りながら、辺りを警戒しながら進んでいった。
歩くことしばらく。景色は変わり、あの丈の長い草は姿を消し、代わりに低木と高い木々が聳え立つようになっていた。先ほどまでは巨大ルクス鉱石による産物か、それとも他の要因による不可思議か。それによって眩いほどの光が空から差していた。
今はそれが高木の木々の葉を抜け、木漏れ日を作っている。その場所では何処からか鳥の囀りが聞こえ、木の上では小動物がキキッと音を出しながら木の上を走り回っている。目に映る情景は平和な森そのものだ。ただ眼前の光景に騙されてはいけない。小動物がいるということは即ち、肉食のそれも存在する。食物連鎖の常だ。
その時、右肩とトントンと何かが叩いた。瞬間的に腰元に垂れ下がる剣の柄に手をかけ、振り向いた瞬間、頬に柔らかいものが刺さる。
「新。お前、集中しすぎ。あんまり神経質になってるといざって時に体が固くなんぜ。ってじいちゃんも言ってた」
緊張の糸が弛緩する。目の前では楠木が揶揄うように笑っている。
「んなことはいいんだ、なぁそろそろ昼にしようぜ」
その言葉の後、辺りの安全を確認して食事をとることになった。食事は俺の作ったバゲットサンド。目玉焼きにベーコン、トマトにレタスと言ったシンプルな作りだ。不幸中の幸いか、この非常時に食料には困っていなかった。というのも自炊する手前、食材をかなりの量『回収の紋章』に入れていたのだ。優に一週間分はあるはずだ。それに楠木の手持ちの携帯食料を加えれば、さらに三日ほどは空腹を満たせる。
「あ、そういやな。新」
サンドを口に頬張りながら今の食糧事情を脳裏で繰り広げる最中、楠木が何やら思い出したように声を上げた。
「どうした?」
「あんなー、多分ここどこか分かったぞ」
彼はそういうと手元のサンドを齧り取り、頬を膨らませる。突然の告白に思考が硬直する。彼が咀嚼を終えると共に再び、頭が働き出し俺は絞り出すように声を出す。
「…どこ…なんだ…」
その問いと共に息を飲む。しかし、彼はそんな俺を他所に平然としていた。
「…この辺りのアレとか鳥とか植物…似たようなのに覚えがある。…多分、十一層だ」
ちょうど樹上を走り去ったリスや枝の上で囀る青い鳥を指差しながら、答える。
その後、少し間を空けて「場所までは分かんねぇけどな」とかぶりを振る。
その言葉によって始めに訪れたのは安堵だった。ラビリンスは十三層ごとに生態系や探索難度が跳ね上がる。中層に落ちていないのは不幸中の幸いだった。
「でもな、気を抜くにはまだ早いぜ。いつもとは状況が違いすぎるって事を忘れんなよ」
そこで楠木は手元に残るバゲッドサンドを口に入れ、咀嚼。それを飲み込むと左指を立てながら、状況を羅列し始めた。
「俺たちの持ってる装備は六層用だし、新は本格的にこの層を探索したことはない。…俺もじいちゃんに連れられて来たことがあるくらいだ。それにお前の体はまだ万全じゃない」
彼はそこまで言い切ると最後の一口になったサンドを口に放り込んで座っていた岩から勢いよく立ち上がった。
「新、午後はここらで野宿できる場所を探すぞ」
少し経って俺も昼食を食べ終わると簡単に片付けをして行動を開始した。




