六十記_無力の園
…させない
血を流し倒れる少年の前に立つその男は一枚のトランプカードを手に詠唱している。
『束縛の紋章よ、その鎖、その獰猛さを持って万物を——』
しかし、それは発動することなく途切れた。あわよくばと振り上げた剣は空を切る。相手は乱入者を警戒したのか大きく距離を取った。
「おいおい、マジかよ…」
大男は体勢を安定させると半ば呆れたようにこちらを見やる。
「なぁ、あんた。スコア四百を超えるやつが二十人はいたはずなんだが」
「それにしては歯応えがありませんでしたね」
気を失っている新の体を跨ぎ、挑発するように言の葉を重ねる。
「決まりだ。あんた、本物の『シャーロット・ローレンス』だな。殺して俺の手籠にしてやるよ」
「それはご遠慮願います。…私の忠心はすでにお一人に捧げておりますから」
「そりゃ、屈服させ甲斐があるな!」
眼前の男は猛々しく吠えるとこちらに向かって突貫してくる。明らかに先ほどより生き生きしている。…根っからの戦闘狂。
そんな感想を抱く刹那で、五メートルはあったはずの間合いが詰まる。口元は微かに動いており、紋章を詠唱していることが読み取れた。新とあの男の戦闘を遠くから瞥見したが、その立ち回りからはかなりの上級者であることが見込まれた。
…紋章の詠唱速度、タイミング。さらには純粋な戦闘能力
状況を加味して確信する。下層を根城にする上級冒険者と実力は同程度。先ほど仲間のことを『スコア400』と言っていたが、この男の推定スコアは500。正直、別格だ。
『…Ace of spades』
ガギンッ!
限界突破の口上を唱えながら、相手の斬撃を想定して盾を間にねじ込む。間もなく、金属同士が金切音を上げて聴覚を刺激する。
…まずいですね
冷たい汗が頬を伝う。完全に攻撃が見えなかった。五感を強化した今の状態で見えないのは非常に危険だ。先ほど相手した冒険者は複数が相手でも経験値の差で対応できた。
しかし、眼前の男は違う。
完全に踏んだ修羅場の数が逸している。最も私には遠く及ばない。しかし、現状の私の能力、所持紋章を考えると経験値だけでは対応が効かない相手なのは確かだった。
固唾を飲む。ただ、表情では豪胆を装う。
「なんだ?余裕かよ!シャーロットッーーー‼︎」
相手の口角が大きく上がる。応じて、盾に対して強い力がかかる。私は何とか鉈を起点に働く力を内に引き込んで弾き返す。だが、完全には勢いを殺しきれず、自らの体も後傾した。
「やるじゃねぇか。山神新の自力からして俺の部下と変わらないくらいだと思ったんだがな」
男は鉈を左手で叩きながら、余裕そうに話し始める。
事実だった。正直、能力面はそれくらい。それに経験値によるものを加えても推定450程度。つまり、男の予測は正しい。相手は勘違いしてくれているが、数値にして実際のところ50ほどスコアが足りない。冒険者スコアが50離れると本来なら戦いにすらならない。新が曲がりなりにも拮抗していたのが不思議なほどだ。
…どうにか逃げる隙を作りたいところですが
僅かでも時間ができれば、『アトラス』か『歪曲』で逃亡が図れる。本当はこの集団と会敵したその時にそうするべきだったのだが、相手もそれを予測してのことだろう。即座に分断されたのがよくなかった。そこで息を大きく吸って自分に言い聞かせる。
…勝たなくていいのです。引き際を見出しなさい、シャーロット
相手を見据え、武器を構える。
『暴風の紋章よ、かの神鳥の力を今ここに。望むがままに蹂躙せよ』
低い、やるせない男の声が耳元で響いた。気づいた時には地面は遥か下。私の体は空中にあった。
——しまった
状況が齎す絶望感が胸の内に広がる。眼下はあのどこまでも深い縦穴。しかし、そんなことはどうでもいい。私は何をされたのか。
視線を地に定めると全容が見えた。数瞬前まで私が立っていた場所に何者かの姿がある。
——あれは
それはあの切り伏せた二十人の中に含まれていた顔だった。
…確かに倒したはず、それなのに
落ちる最中、あの男との会話が聞こえてくる。
「バ、バルバロイ団長。いつも言ってるじゃないですかぁ。あまり戦闘に集中しないでくださいよぉ」
「悪いな、アウレア。だが、これで山神新を捕縛できる」
弱々しい男はびくつきながらバルバロイと名乗るその男に反応を示す。彼はその態度とは裏腹に驚愕する技能を有している。
…私の勘が働かないなんて
全く感知できなかった。あの男、少なくとも隠密行動においては化け物揃いの『深淵層』クラス。それに紛れる能力も異様なほどだ。
…新、ごめんなさい
落下する中で今の主に謝罪する。『Ace of spades』。限界突破の口上を口にするもあの気流に包まれることはなかった。代わりに耐え難い激痛が体を襲う。
…限界ですか
黒バラの隷属者戦で二回。オルトロス戦で二回、ロサイズム戦で一回。元々、どうにもならない状況を打破するための能力だ。器への負担も相当。本来なら、三ヶ月のインターバルを必要とするくらいだ。むしろこれまでよく持ったというところだろう。
…私が死ねば、次の私が生まれる
この縦穴の底に到達するころには私の記憶を持ったもう一人の私が新の相方を務めることだろう。胸襟の中で諦めの境地に至り、人のように走馬灯を体験していく。歩夢様と過ごした十年間、新を傍観していた三年間、そして彼との冒険。
…なんだが、悔しいですね
これからを見られないことが。
これまでを失うことが。
それほどに私が長い間、死を経験していなかった。次の私は全てを知っている。けれど、察ってはない。無常にも体を包む浮遊感が消え、落下へと至るその最中。
突然、真横方向のベクトルが体に働いた。
「シャーロットさん、逃げてください。…イブを頼みます」
彼はその言葉と共に私を地に向かって突き飛ばした。




