四十五記_代償
気がつくと薄暗い空間にいた。
寝そべったままの体を起こすと、辺りを見渡す。すると自身が水面のようなところに尻を付けていることが分かった。目を凝らすと遠くに小丘が見える。丘の上には一本の木が立ち、その下には一脚の椅子が置かれていた。
…誰かいる
その椅子には小さな子供が座っているように見えた。その子は俺が見たことを察知したのか徐に椅子から降りるとこちらに近づいてきた。
…不気味だ
しかし、体はその意思に反するようにその子供の方へと歩を進めていく。そうしていくうちに空間による翳りが子供から取れていき、正体が明らかになる。
…俺だ
それは少年期の俺だった。挨拶をしようと口を開いたが、声が出なかった。相手には口をパクパクさせる鯉のように見えたかもしれない。
『使っちゃったね。僕』
そんなことを意に返さないように彼は話し出した。
『これは警告だ』
その言葉と共に青黒かった空間が赤く照らされる。どこからともなく無数の炎が飛来した。それはあの小丘をも燃やし——まるで空間そのものを燃料とするように燃え盛っていく。
『君のその力は、人への、社会への憎悪と疑心だよ。使えば使うほどにそれは意思に関係なく増長されていく』
崩れゆく小世界の中で少年の手が俺の頬に触れ、耳元で言の葉を囀った。
『——呑まれないように願っているよ、ここからね』
刹那、眼前から少年が消え失せ炎上した空間にただ一人残される。辺りをうろうろ彷徨っていると突然、右手が炎に包まれた。
「がっ…がっ!」
火を払うように左手を何度も振りかざすも当然、炎は消えることもなく我が身を薪としてより勢いを増した。幾許かして炎は全身を焦がし、もう抵抗もできなくなる。その時、生存本能からか眠り落ちるように視界が暗転した。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
「新さま、新さま!」
呼び起こされるように目を覚ました。
何故か息は荒く、寝汗を恐ろしいほどにかいていた。
…何かすごく大事なことを
頭の中で反芻するも空を切る。恐ろしい夢を見ていたのは直感的に分かった。利き手がわなわなと震えていたからだ。
だが、それが何だったのかはまるで思い出せない。
「ひどくうなされていたようですが…」
心配そうに覗き込むシャーロットさんから視線を切って、ソファで横倒しになっていた体を起こして座り直す。
「変な夢を見たんだと思います。もしかしたら疲れているのかも。…今日は色々あったから」
「…そうですか」
「大丈夫?お兄ちゃん。ねぇねぇ、見てみて〜」
一応心配する素振りを見せたイブは髪を揺らして嬉しそうにその場でくるりと回って見せた。彼女にとっての最優先事項は別のことにあるらしい。
…あ、髪変わってる
サイドで纏めた三つ編みが二つ。ツインテール…なのか。
「お姉ちゃんがやってくれたの!」
「イブさん、髪長いですからね」
それは洗っていた時に思った。彼女の身長が百と少し。髪の長さも同じくらいだ。動くときに邪魔だから、編んだのだろう。
「イブさん、もう寝てください。子どもが起きていていい時間ではありませんよ」
「はーい」
機嫌がいいのか、シャーロットさんに諭されるままにベッドへ向かう。
「にゃー」
ソファ前のローテーブルに座っていた猫さんが一鳴きしてイブを追いかけていく。
「?マイヤも一緒に寝るの?」
それに応えるように猫さんはイブの足に自身の体を擦り付ける。
…なるほど。イブは友達で、俺は小間使いですか
まさかだ。来て一日で猫さん内カースト上位に立たれた。それにいつの間にか名前まで付けられている。名前に反応しているところを見るに満更でもないんだろう。
「そうです、新さま」
「お姉ちゃーん」
「はいはい、今行きます」
一人と一匹を見守っていたシャーロットさんは床についたイブに急かされるように返事を返す。そこに向かう時、彼女は思い出したように振り返り俺に声をかけた。
「そうです、新さま」
「なんです?」
ようやく暇になったと、夜の勉強に乗り出そうとした矢先だった。
「明日から三日間の探索はお休みです。無論、稽古はつけますが」
話を聞くと、イブの生活用品や髪の染色などの雑事と…どうやら他にも用事がいくつかあるらしい。
「わかりました」
「ではお休みなさい」
「お休み」
挨拶を済ませると、彼女はベッドに向かう。しばらくすると寝かしつけるためか、小話をしているのが聞こえ始めた。
…猫さんもしばらくはあっちにいるだろうし
腰のホルダーの中から三層〜六層の資料を取り出す。前日にある程度、目処の付いていた四層分は早々に片付け、内容を確認しながら他の層のそれも精査していく。最近の俺の習慣。ラビリンスについての勉強である。
作業に熱中していたためか、気づいた頃にはシャーロットさんとイブの話し声は聞こえなくなっていた。ベッドの方を見やると二人仲良く寝入っているのが目に入った。
…シャーロットさん珍しいな。いつもなら二時くらいまで起きてるのに
ふと時計を見やると時刻は零時過ぎだった。作業の進捗は五層があと少しで終わりそうというところだった。
…これが終わったら、風呂入ろ
そう考えて、テーブルに散らかった関連メモを取りまとめていた時だった。カチリカチリと秒針の音以外にテトテトと言った可愛らしい音が響いた。
「どうしたんだ、イブと寝たんじゃなかったのか。マイヤ」
話しかけるが返答はなく、猫さんはソファの空いているところに飛び乗る。すると邪魔することもなくその場で丸くなった。
間もなく五層のメモもまとめ終わり、それを『回収の紋章』に放り込むと俺は風呂場に向かった。
風呂の底に刻まれた紋章を起動させて湯を温めてから入浴する。ひとしきり体を温めると髪と体を洗って風呂場を出る。速乾性の高い半袖、半パンに着替えると『温風の紋章』で髪を乾かしてから洗面所を後にする。
「にゃっ」
リラックスした気分で居間に向かうと猫さん、改めマイヤが出迎えてくれる。
なんとなくその場で屈んで、頭を撫でるとされるがままの状態になる。
「それじゃ、猫さん。お休み」
挨拶をしてベッドに向かうと遅れて足音がした。
トコトコトコトコ…
ベッドに横になると、いつも一緒に寝る時はそうするように枕元に猫さんは来る。
徐に猫さんを見ると、
『お前ボッチだからな。私がいてやんよ、しょうがねぇからな』
フンス!とどっしり構え、俺を上から見下ろす表情はそう読み取れた。
これがあながち、間違っていなかったらしい。
側頭部に頭に前足を乗っけられたのだ。寝るのに邪魔だったので、何度かどかしたがイタチごっこになったのでその日は大人しくそのまま眠りについた。
* * *
「いやぁ〜よかった、よかった。イブは逃げ切れたみたいだね」
あの濃紺が漂う回廊。その最奥で呑気に青年は声をあげる。
周りには追っ手だったもの達。魔獣、人、傀儡…それらが遺骸となって転がっていた。
「僕が『ピン留め』したのは『新くんと白騎士が合流するところまで』。まさかそこから格上を叩き潰すなんて。よくやるよ、あいつ」
誰一人残らない大空間の中で男の笑い声が木霊する。
「…ただ悪いけど。もう少し試させてもらうよ」
——君にイブを託せるのか
それと、
——深層に辿り着けるだけの素養があるのかを、ね
青年はその場でニヒルと紋章によって虚空を開き、あの古城から姿を消した。




