四十三記_少女と夕食
「イブ、そろそろ起きた方がいいよ」
帰ってきてから、ソファに寄りかからせていた少女の肩を揺さぶる。
「うう…お兄ちゃん」
目を擦りながら起きると床に足をつけて立とうとしてフラつく。俺は焦って脇を抱えた。
「ありがとう。でも大丈夫。多分、今日いっぱい走っただけだから」
「そうか。ならよかった」
「にゃー」
その時、猫さんの声がした。間違いない、時間的にご飯の催促だろう。
「ちょっと待っててくれよ。今するから」
「…お兄ちゃん、猫飼ってるの」
眠気が吹き飛んだのか、イブは目をパチリと開けて弛緩していた手を目一杯開く。
「好きなの、猫」
「初めて見た!」
興奮気味に食いついてくる。余程、猫に惹かれているらしい。
「今からご飯なんだ、猫さんの…」
「ね、ね!名前は!」
もう猫のことしか見えていないらしい。
「……あ」
遅れて気づく。この猫にあってすでに一ヶ月が経過しているが、未だに名前を付けていなかった。俺もシャーロットさんも「猫さん」と呼ぶのでなくても不便しなかったのだ。
「…ないんだ、名前。俺もシャーロットさんも猫のことを『猫さん』って呼ぶからさ」
「じゃあ、イブが…」
「にゃーお」
少女の言葉を遮るように猫さんが鳴いた。…早くしてよ、ったく。みたいなニュアンスが感じられる。
「イブ、ちょっと待ってて。猫さん、ご飯食べないと機嫌悪くなるんだ」
少女にそう断ると台所の上の棚からキャットフードを取り出し、立てかけていた皿をとってその中へカリカリを出す。袋を片付けてから皿を持って、ソファ近くの餌台に向かう。
「にゃー」
「そう急かさないでよ。ご飯は逃げも隠れもしないんだから」
歩く俺の股下を器用に潜り抜けながら、催促をする猫さんにそう告げる。足元に気をつけつつ、餌台までたどり着いたところで皿を置くと一目散にカリカリを食べ始めた。
「食べてる…」
イブは屈んで猫さんの食事をまじまじと見つめる。猫は環境変化に敏感というが猫さんはイブのことを気にする様子もない。シャーロットさんに見つめられるのに慣れているせいだからか。
「イブ、俺たちのご飯は今から作るけど。何か苦手なものあるか?」
再度、キッチンに向かいながら少女に言葉を投げかける。すると僅かな沈黙の後、回答が帰ってきた。
「…野菜」
「それはダメ。美味しく作るから、ちゃんと食べなよ」
「……」
返事が返ってこない。まあ、この年でゴネないことを褒めた方がいいのかもしれない。イブは言動と外見から見ておそらく六〜七歳だろう。歩夢なんて高学年でも嫌なことでゴネていたものだ。
食材を保存した『回収の紋章』を見やり、メニューを決めていく。
…メインは鶏肉の野菜炒め。あとはかき玉汁とサラダかな
それが決まると該当する食材を紋章から取り出していく。出し終えると調理を始めた。
この世界では米が中々に高い。どうやら米にとっての適正の高い環境自体がラビリンスには少ないらしく、それが値段に反映されているらしい。俺はそれを初めて聞いたとき、「実世界で山ほど余っている米を輸入すればいいのに」なんて感想を抱いた。
対して野菜は安い。水はけの良い土壌が多いからだと聞いている。畜産は食用動物の凶暴性から産業化は不可能だが、八百屋の値段も実世界より一段と安い。問題と言えば、本来、米からとれていたはずの食物繊維を野菜類で補わないといけないことだった。
…まあ、冒険者稼業やってるから肉は実質タダなんだけど
瑣末なことを考えながら、食材に手を入れていく。
…イブはパンメインの方がいいんだろうか
大体、俺とシャーロットさんの時は夜はオカズと汁物、サラダで済ませるのだが、イブは今、育ち盛りの年だ。主食があった方がいいのかもしれない。因みに俺は春頃からめっきり身長が伸びなくなったので、過渡期は過ぎたと言った具合である。
…それに野菜嫌いの子に山盛りのサラダ食べさせるのも気が引けるんだよな
調理中、火を弱めてからイブの方をチラリと見る。どこから見つけたのか猫じゃらしを片手に食事を終えた猫さんとソファの上で戯れていた。
…ちょっと手間かかるけど
ひらめきと共にそこで調理に戻った。野菜炒めを仕上げる前にイブの分のそれを小皿に取る。俺とシャーロットさん用のものを調理し終えた後、イブ用の調理に戻った。
『回収の紋章』の中からトマトと玉ねぎを取り出して賽の目切り。香草を加えてから火にかけて形が無くなるまで煮込んだ後、先ほど除いておいた野菜炒めの具を足す。
作るのは具沢山のトマトソースといった感じだ。これをバゲッドに挟んでしまおうというわけである。
…これなら、食べるサラダの量も減るからな
皿に料理を盛り付けるとイブを呼んだ。
「イブ、ご飯できたよ」
「は〜い。…じゃあ、また後でね、マイヤ」
飽きずに猫さんと遊んでいたらしい。猫さんに何やら言うとソファからタンと降りて机のあるキッチン後方までやってきた。そこでふと思う。
…この子、一日立たずに人ん家に順応し始めてるんだが
これが子供の順応性か。いや、そんな筈はない。
「なあ、イブ。なんで俺たちをそんなに信じてくれるんだ。ほら、悪いお兄さんたちかもしれないだろ」
なんとか椅子に座った少女は当たり前のように俺に返してきた。
「?お兄ちゃんもお姉ちゃんも優しいよ。それにアルバートお兄ちゃん行ってたもん。『イブを助けてくれる人はとてもお節介さんだから遠慮なく我儘言いなさい』って」
…アルバートお兄ちゃん
なんて滅茶苦茶な物言いをする人なんだ。イブが悪い大人に助けられたら、なんて考えはしかなったのだろうか。それ以外にも突っ込みたいことはあるが。お節介さんに我儘言っていいってどういう論理だ、ホント。
純粋なイブの発言に頭を悩ませながらも、表情を取り繕う。
「…そっかぁ。ああ、イブのはそっちだからな」
「うん!」
返事と共に逆側の椅子に向かうと少々、難儀しながら座る。
…そっか。あれ、普段はシャーロットさんが使ってるから
これから暮らしていくのであれば、この子用の椅子が必要になる。現在、宿には二脚の椅子しかない。
「いただきます」
「いただきます!」
野菜嫌いのイブがきちんと食べてくれるか気になって、チラチラと目を向けながら食事を進める。トマトソースのバゲットサンドは割とすんなり食べたのだが——やはりサラダで手が止まった。
カッカッカッカッ
しばらくすると小皿の底をフォークで弾く音が響き始めた。どうにか全体の二割までは食べ進めたようだが、それ以上は食べようとしない。
「…イブ、行儀悪いよ」
「だってぇ…」
まあ、気持ちは分からなくもない。俺も野菜を積極的に取るようになったのは、黒岩先生と関わり始めた頃辺りだ。健康への意識が自発的に向かないと多くを取るのは難しい。
結局その日は追加でベーコンを一枚焼いてスライス、それを野菜に絡めて食べてもらった。
…ステルスで増やしていくしかないか
洗い物をしながら考える。咄嗟に思いついたのは世間で話題になっていた「ステルス値上げ」だった。これは商品の値段を変えないまま、内容量を減らすという一種の消費者詐欺のようなものだ。ただ、世界的な不況を鑑みて、世の中が容認して現代では暗黙の了解とされていた。
まあ、イブの野菜対策はこの逆である。毎食バレない程度の量を少しずつ足していくのだ。
…それで、残りの不足は他の料理で補うとして
猫さんの餌皿も回収して洗っていつものように立てかけて、取っ手にかけてあるタオルで手を拭いていると。
「お兄ちゃん、お風呂入る」
これがちょっとした事件だった。




