四十一記_憎悪の再演
シャーロットさんは予定通りオルトロスを沈めた。今はちょうど巨獣の真後ろを走っている。俺は泥沼の場所目掛けて鋭角に曲がり、さらに速度を上げた。
…沼に沈んだとはいえ、四メートル近くある
本当にいけるのか。疑念が湧いた。算段はある。しかし、それはおおよそ人の飛べる距離ではない。
…覚悟を決めろ、速度を緩めるな
鋭く息を切り、自身の速度の限界まで回転数を早める。そして、踏み込みと同時にそれを唱えた。
「…Ace of spades」
…ッッ!
刹那、超人的な力が体に宿り、常人ならぬ跳躍に至る。俺は勢いを殺し切れずに背中から転がるように巨獣の背に落ちた。
…いてて
背中に痛みが走るが、蹲ってもいられない。なんとか体を立たせると…体の二箇所、首筋と左足首に違和感を捉えた。
…もう来た
違和感に従って腰元の剣を引き抜き、眼前で横薙ぐ。すると二つの頭が背に転がった。
…こいつら毒牙持ってんだよな
つまり先の攻撃は当たれば、即死だ。イデアの攻撃予測がなければ今頃…
…頼るぞ、根源
獣の背はオルトロスの足掻きによって常に揺れていた。さらに沼に囚われているからか、ただでさえ凹凸の激しい背中が一層そうなっているように見える。振り落とされないように足場を選びながら、迫る蛇頭を切り伏せていく。
『一縷の翳り、生まれ落ちる——』
蛇を切り捨て、一節。
『翳りは渦となり立ち込め——』
歩を進めながら、さらに一節。
『渦は豪炎となり、万物を混沌へと誘え——』
ついに背へと至り、剣を逆手に持ち替えて両手を携え、首の付け根。その傷口に突き立てる。
「紋章解放、焼き尽くせ『炎の紋章』よ!」
瞬間、右腕全体が煌々と燃え盛る紅き炎に包まれる。それが揺らめき、剣を伝いオルトロスを内部から焦がす。その時、それまでとは一線を画す激しい振動が身を捉えた。巨獣が灼熱の痛みから暴れているのだ。振り落とされないように剣の柄を握り直し、力をひたすら込める。
…暑い
炎は奇怪なことに俺自身を焼きはしない。しかし、高温で燃えたぎる熱は体から着実に体力を奪っていく。せめてもの救いはこちらに邪魔が入らないことだった。傷口を中心に広がった火はオルトロスの武器である蛇を焼き殺して続けている。
…さあ、化け物。我慢比べだ
口角が上がり、目を見開く。おそらく俺は不敵な笑みを浮かべているはずだ。あまりの高熱に気が狂ってしまったに違いない。
そうして頭も朦朧し、長期的な耳鳴りに悩まされ始めたその時。巨体が大きく傾き、倒れた。すでに体も限界で体が横倒しとなると同時に地面に放り出される。
まもなく、体を仰向けに起こされた。
「…み、みず」
半ばしゃがれた声で呟くと、口に大量の水が流し込まれた。それを自分でも驚くような速度で喉を鳴らし、胃へと送る。瞬きを数度繰り返すと視界が安定してきた。
「大丈夫ですか、新さま」
「うん、なんとか。シャーロットさん、あの子のところに行ってもらってもいいですか?俺しばらく動けそうにないので」
左手にマウントしていた盾を外すと床に寝転がる。冷たい床で少し休むと、上体を起こして深呼吸を繰り返す。そうしてそろそろ立ち上がれそうという時、シャーロットさんが少女を連れてこちらにやってきた。
「Frater!」
そう言いながら、少女は駆け寄るとどんと胸中に飛び込んできた。倒れそうになりながらもなんとか耐え切る。
「Minine! Quaeso non volat quia fessus est!」
シャーロットさんが何やら高圧的な口調で少女に言うと、彼女はむくれながら俺の首の手を回して背に寄りかかった。
「Avarus soror!」
少女はすぐさまそう言うと俺の背中に隠れてしまった。
「…シャーロットさん、この子なんて言ったんです?」
「『お姉ちゃんのケチ』です」
「その前、シャーロットさんは」
「『お兄ちゃん疲れているから、飛び付かないで』と。新さまも彼女の言葉、分かると思いますよ。普通のラテン語ですので」
…ラテン語?
そう思って聞くと微妙に分かるような気もする。ラテン語は実世界で黒岩先生にほんの少し習っていた。なんでもラテン語で書いた処方箋はどこの国でも正確に調合出来るそうで「出来ておいて損はない」らしい。
…気にしないでは英語で「please do not worry」だから
「non…anxius…sum.」
(俺は気にしてないよ)
脳裏から単語を引っ張り出し、どうにか呟くと後ろから微かな力が加わり、肩から少女が顔を出した。
「Frater , linguae latinae loquitur?」
(お兄ちゃん、ラテン語話せたの?)
純粋に疑問を抱く可愛らしい声が耳元で響く。
それに右手を持ち上げ、親指と人差し指で『ちょっと』と示す。
その時気がついた。あの、シャーロットさんの戦闘を傍観していた時と同じだ。体力が明らかに回復している。
…勘違いじゃない
少女は何らかの手段で他者の体力を回復させる手段を持っている。感じを見るに体の一部が接触していることが条件だろうか。
「新さま、体の方は大丈夫でしょうか」
「はい。あれ、オルトロスは…?」
眼前に倒れていたはずの巨獣の遺骸は綺麗さっぱり無くなっていた。
「先ほど『回収』しました。…では、行きましょう」
シャーロットさんは少女に合図を送る。しかし、彼女はまだシャーロットさんに注意されたことを根に持っていたようで彼女に向かってむくれ顔を作っていた。




