四記_決定的な変貌
一限「国語」、二限「数学」、三限「数学」、四限「英語」。
あっという間に四限が過ぎ、昼休みになった。朝、業平に「先生に当てられる」と言っていた生徒は、業平含め、友達の助言でどうにか授業を乗り切っていた。
「山神く〜ん、ちょっといいかな」
黒板の板書を書き取る手を止めて、顔を上げる。すると教室の入り口のほうから手招きをする人が目に入った。英語担当の根岸先生だ。
「はい、今行きます」
返事をしてから席を立ち、教卓に向かう。そこに置かれたままになっているスーパーのバスケットに手をかけた。
中に入っているものは、言わずもがな根岸先生の授業道具である。相変わらず、管理は雑なようでとりあえず放り込んだのが見てとれた。
先生は実家の近隣に住んでいた人で、幼少期は一緒に遊んでもらっていた。確か、年齢は丁度俺と十歳差だったと思う。それなりに親しいせいか、この高校に進学してからは雑務をよく頼まれていた。
「山神くん。最近大丈夫?」
職員室まで荷物を運ぶ途中で先生に話しかけられた。三週間ほど前、日々の無理が祟って学校で倒れたことがあった。おそらくそのことを気にしてのことだろうと推測する。
「大丈夫です。病気とかではないですから」
「…そう」
やや遅れて反応すると、先生は眉を顰めた。すると彼女は僅かに躊躇うような間を置いてから、口を開いた。いつの前にか足も止めていたようで声は背後からかかる。
「君は…まだあの子に引き摺られているの」
その言葉は、寝不足で朦朧としていた頭を鋭く貫いた。
「…これは俺の意志です。俺はただ失いたくないだけですよ」
俺は取り繕うように言葉を繋いだ。人の死を傍観すること。それは本当に耐えがたい。今、思い出しても胸が締め付けられる。それだけに他の人にはなるべく経験させたくないという気持ちが常にある。
「…そう。でも、倒れられるのは勘弁だからね」
「はい、分かってます」
一度、倒れてからは体もしくは頭に異常を感じた時には寝ることを最優先に置くように変えていた。この一件で人には限界があることを身をもって知った。気が逸るのが常だが、こればかりは仕方がない。
「じゃ、ありがと」
職員室に着いた先生はそう言って、俺から荷物を受け取ると中に入っていった。
* * *
私は新と別れた後、自席に座った。瞬間、いつものように謎の脱力感が身を襲い、それに従うように上半身を机に投げ出した。
…私は彼に何と声を掛ければよかったのか
その子のことは忘れろ、その子は今のように憔悴した君を見ても悲しむと思う。
普通なら、こんな言葉を言うのだろうか。
どれも気休めにしかならない。下手を打てば、彼の怒りを買ってしまいそうだ。そのくらい彼女は彼にとって大きな存在だった。
元々、人と関わるのが得意では無かったのか彼はいつも一人だった。公園でいつも一人で遊ぶ彼を放っておけなくて話しかけたのが、私と新が話すようになった切っ掛けだ。
ところが歩夢ちゃんが新と交友関係をもつことを契機にしてだんだん友達も増えて、よく笑うようになった。そして私はいつしか友達の一人になった。
しかし、彼女の死後、彼は変貌した。狂ったと言ってもいい。卑屈になり、友達は減り。
そして——笑わなくなった。
それまで学力が平均くらいだったのが、県内最難関のここに受かるくらいになり、今は薬学の研究職を志望している。
その異様なまでの変容ぶりはまるで何かに取り憑かれているかのようだった。見ていて畏怖を抱くくらいには狂気をその身から滲ませていた。
人を助けるためなら、自分の命は厭わない。そんな気迫を日々強めているように感じる。
人様からしたら、立派に見えるのかもしれない。けれど、私は今の彼はまるで奴隷のように見えてしまう。歩夢ちゃんに、死者に生き方を支配されてしまっている。
そういう気がするのだ。
その裏には物を、人を、あらゆることを失うこと、失わせることを怖がっている姿が見え隠れする。彼自身もそれは認識しているようだった。
確かに彼女には不思議な力があった。見るものを惹きつけ、ただそこにいるだけで人を纏めてしまうカリスマ性。絵に描いたような優等生だった。
確かにあんな魅力的な子を欠いてしまったら、そうなってしまうのかもしれない。
「ん〜でもな〜。お姉ちゃんとしては結構心配なんだよな〜」
他の生徒みたいに「ゲームしてて寝不足なんです〜」なんてことならどれだけいいか。
体の内から不安を絞り出すように両腕を上げて伸びをする。逆さになって見上げた空は全体が暗く、所々ゴツゴツとした暗雲が立ち込めていた。
* * *
キーン、コーン、カーン、コーン。
今日の日程の終わりを告げる時鐘がなる。
あくびをしながら、帰り支度を始める。学校の授業は退屈だった。入学当初から国立の薬学部を志望していた俺は早々に勉強を開始。すると一年ほどで高校の履修範囲が終わってしまったのだ。去年の年末に拍子抜けしたのも記憶に新しい。現在はそれを踏まえて大学への飛び級も視野に入れ始めていた。
雑多な事を考えながら荷物をバックに詰めて、忘れ物がないか確認する。
…おそらく大丈夫だろう
二度、三度、入念に確認した後にその結論に至る。
すると、教室前方から俺を呼ぶ声が聞こえた。
「あらた〜。今日、カラオケ行かねー?」
例の如く、業平だった。頭を上げると、彼の近くに数人が固まっているのがわかった。おそらくそのメンバーでカラオケに行くのだろう。
荷物を入れたバックを肩にかけ、業平の方に向かう。
「悪い…。今日は予定があるんだ」
実際、予定はない。ただ参加するのに気が引けるだけだ。クラス内での俺の印象は悪い。仏頂面に親交はなく、学力だけが取り柄の生徒。それが人気者の業平に目をかけられている。
その事実が不興を買っていることを俺はよく知っていた。
「あっそうか…。またダメか」
業平は肩をすくめる。昔はこいつともよく遊んでいたのだ。歩夢も一緒に。だから、その時のノリなのは理解している。
…ただな、業平。今と昔じゃ状況が違うんだ
お前は俺と歩夢の後ろをついて回っていたのに今や二本足で立っている。俺はといえば、勉学にかまけてそれ以外を失ってしまった。
「じゃ」
「おう!また明日な」
早急に会話を切り上げた俺は教室の扉に向かった。
* * *
「なんなのよ!あいつ」
「ナリもいつも来ないやつ、なんで誘うかな」
「なんか、勉強できるからってお高く止まってる気がするし」
「いや〜。あいつ、面白いよ。歌上手いし」
俺はクラスメイトの不平に適当に言葉を返してはぐらかす。
「そんじゃ、行こっか」
そう合図して歩き出した。
…昔はあんなやつじゃなかったんだけどな