三十七記_石像の悪魔
少女をおぶったまま、建物が古いのだろうか。所々亀裂の入った回廊をしばらく歩くと何やら二股に別れた階段を中心とした大きな空間に達した。空間全体が青白い光に包まれ階段の両脇に鎮座する像が相まって荘厳な雰囲気を演出している。その時、盛大なミスに気がついた。
…俺が入ってきたのって路地だったよな
詰まるところ、正規ルートからこの空間に入っていないのだ。だから、洞窟特有の入り口の見分け方をしたところでそれは意味をなさない。成したとしても《《正規ルートの》》《《入り口》》に辿り着くだけだ。どうやら限界を越えた戦闘で頭のほうも鈍っているらしい。
しかし、気づいたこともあった。ここに辿り着くまでに少女を追ってきた距離と同じくらいは歩いている。俺が逆方向に来たのは間違いない。なら、引き返せば外に出られるはずだ。
この空間のことは気にはなるが、今はシャーロットさんと合流して近隣の街にこの少女を連れて行くのが肝要だろうと結論付け来た道を戻ることにした。
ピキッ…ピキッ…
刹那、異音が鼓膜を突いた。
まるで鳥のひなが内側から殻を突くようなそんな音が空間に響き渡る。
振り返ると音の正体は歴然だった。こちらに近い方の像から何かが剥がれ落ち、床と金属音を奏でている。
…ガーゴイル
雨樋の方ではない。あのフィクションに出てくる石像の怪物…その方だ。
ゆっくりと上体を前方に戻すと、足元に注意して逆側へと進む。もう片方が反応していないことを考えるとあれは警備兵のようなものなのかもしれない。
…やり過ごせればどうにかなるか
思考が脳裏を掠める。仮に巡回警備のようなものでまだ俺の存在を完全に知覚していないのなら。…あるいは
そう思ってひそりと歩を進めながら、辺りを見回す。
…あそこならどうにかなりそうだ
目先二十メートルほどのところに深い亀裂を見つけた。この青暗い空間なら俺たちが奥で隠れればそれを回廊から目視するのは難しいだろう。
不気味な音は空間を幾重にも反響し、その重なり具合が不安を増長させる。固唾を飲んで一歩。また一歩と目的の場所へと足を踏み出す。少女には悪いが背中はもう汗でびっしょりだった。
…ハァハァハァ……はぁ……はぁ
緊張からか浅くなる呼吸を意識的に遅くする。たかが二十。しかし、延々とも思えるような道をゆっくりと…けれど、着実に進み、例の亀裂へと到達した。少女を前に抱え直し、その奥へと潜る——その時。
「Garuuuuuuuuuuuuuuuuu!」
床と破片のぶつかる音が消え、何か大きなものが地面へと降り立った。咆哮とも威嚇とも取れる獣の声が空間を木霊した。ドンッ…ドンッ…と地を踏み締める音が床を伝わり、臀部まで響く。そこで亀裂の最奥に至った。呼吸音を限りなく小さくし、危機が去ること願う。
…頼むから、戻ってくれ。こっちに気づくな
足音からするに相当な巨体だ。戦ったらまず勝ち目はない。それ以前に防戦することも不可能だ。今は体力も僅かで、防具も武器も全て仕舞ってしまっている。強いていうなら、オルグに作ってもらった『炎の紋章』が右手の甲にあるだけだ。《《それ》》が去るのを祈ることしかできない。ただそんな思いとは裏腹に足音はこちら側へと近づいてくる。
刹那、何かが亀裂を覆った。目を凝らしてみると大きな獣の足のように見えた。
——目が遭った
その赤くドス黒く目は暗闇の中でも燦然と輝いているように見えた。
…終わった
そう思った。ほんの少しだが、少女が長く生きられるようにと彼女を体で覆う。
しかし、驚いたことに追撃はなかった。幸い、彼方には俺たちは見えていなかったらしい。獣の目は何事もなかったように亀裂から離れ、足音は遥か後方へと遠ざかって行った。そこでほっと胸を撫で下ろす。
もしかしたら、視力はそこまで良くないのかもしれない。
…おそらく索敵範囲を一通りあたったら台座に戻るだろう
予想通りある程度まで遠かった足音はもう一度こちらの方へと戻ってきた。どうやら反対側の壁を念入りに調べているらしい。獣の巨体、その全容がうっすらと見えた。黒毛で四足歩行、筋肉の隆起は獅子を思わせる。
…あれは真っ当にやり合える相手じゃない
石像は遠くから見ただけで大きさは判然としなかったが、ほぼ直線上にいる今はよく分かる。この回廊の高さが大体八メートル。その半分以上をあの巨体が覆っていることを考えると推定体高六メートル。化け物もいいところだ。
その時、胸のうちでもぞもぞと何かが動いた。
「n…n…frater」
魔が悪いことに少女が起きた。言葉は伝わらない。俺は急いで人差し指を口元で立てた。
「Quid? frater」
首を傾げて純粋な眼差しでこちらを見上げる。寝起きで時間感覚も緩やかなのか、ゆったりとしていた。
「…シー」
呼吸音だけで沈黙を促す。しかし…
「Non scio!」
少女が金切声を上げた。瞬間、俺は硬直した。無理やりギリギリと首だけをあの番兵の方へ向ける。右へ、左へと首を振った巨獣はよりにもよってこちらの位置を完璧に把握したらしい。
恐ろしい速度でこちら側に到達し、亀裂に自身が入れないことを悟ると《《壁ごと》》こちらへ向かって、噛み砕き始めたのだ。
…あぁ、クソッ
とは言え、相手は幼女。責めるわけにもいかない。
手元には一握りの可能性。しかし、直感が使用を拒んでいた。
…覚悟を決めろよ、俺
左手で右手にある『炎の紋章』をなぞる。一息つき決意を固めた。
状況を理解したのか、震えだす少女の方を強く掴みこちらに注意を向かせる。
「いいか。君はここから出るな。俺がなんとかする」
眼前の少女はブリキの人形のように何度も首を震わせる。
少女を穴の最奥へと促すと、手近に転がる小石をいくつか拾う。そして、獣の顎と床面その間を滑り抜けるようにして回廊へと飛び出した。
すぐさま小石を投擲する。すると完全にこちらに反応を示した。
「こっちだ、化け物!」
畳み掛けるように大声を発し、注意を引く。
瞬間、足の回転数を最大化する。大きな足音が追ってきているのを知覚すると、右手に宿る唯一の対抗手段たり得るものに目をやった。それを発動すべく詠唱を始める。
「一縷の翳り、生まれ落ちる——」
一節を唱えると右手が僅かに痛んだ。紋章式が構築され始めたのだろう。目端で相手の姿を見やる。距離は着実に迫っている。
「翳りは渦となり立ち込め——」
獣は詠唱半ばですでに目前まで来ていた。
——間に合わない
「渦は豪炎となり——」
相打ち狙いで最終節に差し掛かった時だった。白銀が飛来したかと思うと眼前の巨獣は右へとすっ飛んでいった。
「何をしているのですか!どこかへ駆けて行ったかと思ったら…あなたはバカですか」
済んでのところで俺を救ったのはよく知る白騎士の少女だった。




