三十二記_歩夢と黒バラ
「彼女の願いを神ではありませんが、聞き届けたものがありました。あの黒バラ——ロザ・ペッカートゥムです。彼女の長い生涯その大部分を犠牲に私は蘇りました」
自身で言い放ったそれを脳裏で反芻する。
そうだ。私はあの願いを聞き届けるがその代償に命を持っていくあの黒バラによって救われたのだ。
「…嘘だろ」
瞬間、沈黙を決め込んでいた新さまの目が見開かれた。それもそうだろう。自身の恋人の命を奪った相手が別の形で人を救っていたのだから。
怒りの矛先を何処に向けたらいいのか分からない様子で目を右往左往させている。
私自身もその時のことはよく覚えている。激痛に苛まれる体から痛みはおろか傷すらも消えて、眼前には主人が持ったままだったはずの私の紋章が現れたのだから。
「いや、おかしいだろ。確か、黒バラの存在の告知が十二年前。十三年前なんて存在すら知られてない——」
彼は話をしている途中で何やら考えに至ったらしく、口を止めた。カッと見開かれた目が恐る恐るこちらへと向いてくる。
「まさか、その嬢ちゃん。最初期の黒バラの呪い。その罹患者か」
私はその言葉にゆっくりと頷き、それを肯定する。
「なら、黙っとくのもそうだわな。黒バラの呪いはその効果が世間に浸透した途端に『初期にかかったやつ』が断罪された。…その内、広まるのは分かっていたのにな。あんな化け物を開花させたのは誰だってな。それに『星々の大遠征』。その現場となった場所は酷い有様だった。そんな中で無傷で『白騎士』だけが生きていたなんて変な話だ」
「ええ。ですから、当時はほとんど古典的な変装をして過ごしました。紋章ですると看破される可能性もありましたから」
そう語りながら、あの頃に起こったことを思い出す。
黒バラの呪いが世間に浸透する頃にはあの呪いは規模を拡大し『範囲内の生物の願いをその余命を奪い取ることでその長さに応じて強制的に叶える』というものになっていた。当然、初期にはこれを利用しようとする権力者も出てきたが、それもすぐに無くなった。なぜなら、野望も抱けないほどに呪いは勢力を伸ばしたからである。
「なるほどな。それを考えると、刈谷が義勇兵団を創設した理由も分かる。あん時は偽善か、なんかかと思っていたが…まさか娘を守るためだったなんてな」
紋章による影響は原則的にその根幹たる紋章がなくなれば、消える。
それに乗っ取ったものだった。
これは一定の成果を上げた。義勇兵団が活動し始めてから、黒バラの呪いその罹患者の健康が促進され、平均寿命が伸びたのである。
後に根源となる黒バラから離れれば、離れるほど呪いの影響が軽減されることがわかり、私は歩夢さまのことを任されて実世界へと立った。
「その後は簡単ですね。呪いを軽減するために歩夢さまの世話係として、実世界で暮らしておりました」
「なるほどな。通りで、十三年間も音沙汰なかったわけだ。だが、なんで新なんだ。あいつは冒険者としてズブの素人だ。その話からするに実世界で知り合ったみたいだが」
まあ、その問いは最もだ。未契約のまま戻ってきて、深層の冒険者と組んだ方が旨みがあると考えるのが普通だろう。
「歩夢さまに頼まれてしまいまして。『新は弱いから守ってあげて欲しい』と。私の命は彼女の献身の賜物であるといっても過言ではありません。ですから、こうして彼と契約しているわけです」
「なるほどな…」
オルグさんはそういうと、パイプを加え直した。その視線は新の方に向いている。
「じゃあ、新は下るのか。あの子…歩夢っていう女の子を殺した元凶を倒すために」
「概ねそうですね。大体、五年後には深層に辿りつけるかと」
「まあ、理由はともあれ。そうなんじゃないかとは思ってたがな、と。悪ぃな、新。ちと席を外してくれるか。嬢ちゃんだけに聞きたいことがある」
すると新さまは何も言わずに席を立ち、工房の扉を開く。動きはどこかのろりとしていて心ここに在らずといった様子だ。やはり、気持ちの整理がつかないのだろう。
「で、シャーロット、あんたあいつに紋章の使い方、碌に教えてねえだろ」
オルグは扉が閉まるのを確認すると話を切り出す。
…さすがの慧眼。職人の観察眼からくるものか
おそらくこの間…二週間前に初めにここに訪ねた時には気づいていたのだろう。
オルグはさも当然のように語った。確かに微力ながら、上層の上部でも所持者の能力を高める紋章は存在する。特に爬虫類にはそういうことが可能な種が多い。最近よく依頼を受けるルブスもその類の紋章だ。しかし…
「深層に行くつもりがあんなら、上層くらいは『自己強化系』の紋章は使わねえ方がいい。紋章がなけりゃ何もできねえやつは深く潜りゃ確実に死ぬ。育成機関とかじゃ常識だわな」
こちらの思考を読み取るようにオルグさんは口を開いた。そこまで言ってパイプを咥える。しばらく物思いに耽るようにそうし続けた後に、ゆっくりと煙を吐いた。
「あんたは正しいし、多分、世間も正しいと思う。けどな、俺は思っちまうんだよ。それまでに死んじまったらどうすんだってな」
…。
私は口を噤んだ。知っていた。分かっていた、そのリスクも重々に抱えていることを。それでも私は彼に『強化系』の紋章の使い方を教えなかった。
それは身に染みているからだ、ラビリンスの深層という場所がどういう場所なのか。
肉体を極限まで鍛え上げ、その上で強化系の紋章を多用して初めて及第点に立つ。あの場所は人の身には余る強さを要求する。だから、本当にそこに至るためには今の処置は必要なこと…そのはずだ。
「悪いな、嬢ちゃん。そこまで悩ませるつもりもなかったんだがよ。…だが、際を誤るなよ。って、見た目は嬢ちゃんでも俺の何倍も生きてるんだっけか」
オルグはそう言って呵呵と笑う。落ち着くと体に響いたのか、「テテッ」と腰を抑えながら、彼は揺り椅子から立ち上がった。
「…そろそろお開きにすっかな」
その言葉を発端に辺りの様子を見ると、窓から夕陽が差し込んでいるのが分かった。
「新の事、ちゃんと見てやってくれ。だいぶキてるみたいだからな」
彼はそう言って、眉を顰める。しんみりとしたままお開きになり、オルグに玄関まで送られる。
『よくねえな。ジジイにもなるとすぐに情がうつる。若いもんはみんな可愛く見えきやがる。…新を頼むぞ、嬢ちゃん』
去り際に伝えられたその言葉は肩がずしりと重たくなるような、胃に石が横たえるような…そんな感覚を私にもたらした。
* * *
「…終わりましたか、シャーロットさん」
店の前で俺は屈み、項垂れてた。世界を滅ぼす黒バラが人を救っていた。その事実に混乱していた。
『命を吸い、願いを叶える力』
今まで『命を吸い尽くし、世界を滅ぼす』という方に思考が偏っていたが、あれには救う力もあるのだ。見落としていた。いや、見ないフリをしていたのかも知れない。
「新さま…」
心配そうにシャーロットさんが声をかけてくる。俺はそれに深いため息でもって答える。
誰かと話したい気分ではなかった。
「新さま、私が言うのも何ですが、黒バラは倒さねばなりません。そうでないと世界が滅んでしまう」
…そんなことは分かってる
いくら願いを叶えると言っても、代償に命を持っていくのだ。そんなもの生かしておいていいはずがない。ただ理性に反してポツリと零れた。
「…黒バラの力で死者が生き返った事例はありますか」
「ございます。約五十人分の命を捧げれば、人一人蘇らすことは可能です」
シャーロットさんは淡々と続ける。
「ただ生き返った人はまともな精神を持たないとも聞きます。一度、『死』という概念を理解しているが故に、狂ってしまうと。それを抜きにしても歩夢さまは——」
「分かってますよ。歩夢はそんなことを望まない。そういう人じゃない」
…けど
「俺はシャーロットさんの話を聞いて夢想してしまったんです。彼女が生きる世界を。満面の笑みを浮かべて振り返る成長した歩夢の姿を」
「…新さま」
「すいません。ただの泣き言です。倒しましょう、黒バラを。あれはこの世界に在っちゃいけないものだ」
そう言って立ち上がった刹那、体にどっと強い衝撃を受けた。遅れてシャーロットさんが俺を抱きしめている事に気づく。
「あなたは立派です。歩夢さまの命で蘇った私に糾弾もせず、剰え理性的にあろうと努める。普通の人には到底できる事ではありません」
抱擁がよりキツくなる。
「ですが、そうして感情を押し殺し続けると貴方が壊れてしまう。何かあったら私に言ってください。誰かに話せば少しは楽になれますから」
「…はい。ありがとうございます」
俺はその言葉にそう返すことしか出来なかった。ただ自分の心の痛みを知ってくれている人が近くにいる。その事実は僅かに俺を鼓舞した。




