百八十六記_相反
「93番。支度しろ」
それからさらに二日後、丁度入浴を終え牢に戻った時だ。俺は突然、あの堅物の刑務官に檻から出るよう命じられた。
…早かったな
おそらく拘置所(起訴から裁判までの待機牢)への送致だろう。俺はそう勘繰り、無言で両手を体の前に突き出す。被疑者が移動する時は大抵、手錠を嵌められるのだ。今回もそう思っての事だった。
だが、返ってきたのは意外な反応だった。
「…何をしている、93番。支度しろとそう言ったはずだ」
「…?」
俺はその言葉に首を傾げる。その時、いつもの配膳口に衣服が載っていることに気がついた。俺がラビリンスから帰還した時に着ていた服だ。洗濯されているのか、しわもなく綺麗に畳まれている。
俺は即座に着ていたジャージから洋服に着替えると再び檻の前へ。すると珍しく手錠も腰縄もない状態での移動となった。開放感はあるものの伸びを出来るような心境でもない。俺は淡々と前を歩く刑務官の後に続いた。
「おう、来たか」
やがて留置場の入り口に着くと、俺の取り調べ担当だった小笠原さんに声をかけられた。彼の前には見覚えのない中年の男の姿がある。
「君が『安藤業平』くんか」
…名前呼び?
いよいよおかしい。俺は拘置所に送致されるのではないのか。
「それじゃセキさん。俺はここで。」
小笠原は手を軽く立てながら、会釈すると俺のいる方へと近づいて来た。そして、取り調べが終わった時のように肩にポンと手を置くと耳元で囁く。
「…よかったな」
…?
その言葉に再び疑念を抱く。状況が飲み込めない。
すると目の前に毅然と立つ『セキ』と呼ばれた人物が敬礼をした。
「ご苦労」
その言葉に呼応するように俺を連れてきた警官が礼を返し、それから数歩下がる。
互いに額から手を下ろすと眼前の彼が俺に向き直った。
「安藤業平くん、付いて来てくれるかな」
「……」
中年の男と視線を交わす。来歴も知らなければ、所属も不明。そもそも何故、ここにいるのか。俺をどこへ連れて行こうしているのか。それらが何一つ分からない。普段なら不審者扱いは免れないだろう。
だが、俺は迷わず歩を踏み出した。半ば投げやりだ。いつか死刑の執行される身。人生に悔恨もない。どうなろうと構うことはない、そう思った。
俺は先導する彼の後ろを付いて歩き、留置場を後にするとそのままの足で一台のセダンの前まで案内された。使い古されているのか、燻銀を放っている。
「後ろに乗り給え」
俺が車をまじまじと見つめていると男はそれだけ言って、運転席へと消えた。声に従うようにして俺は後部座席のドアを開き、身を屈める。間もなくして車は何処かへ向けて発進した。
「いや、悪いことをしたな。業平くん」
呆然と車の窓から見える景色を眺めていると前方から声がかかった。風景から目を離し、声の方を向くとバックミラー越しに視線が合う。
それに何処となく気まずさを感じた俺は目を逸らした。
「随分、警戒されてるみたいだな。無理もない」
彼は軽く息を吐くと徐に自己紹介を始めた。
「私は『セキ』だ。この名前は秘匿名、俗に言うコードネームのようなものでね。立場上、本名は名乗れない。所属は警視庁公安部第一課。…とは言っても今は『ロサイズム』関連の末端調査員という位置付けだが」
末端調査員というのが気に食わないのか。セキと名乗った男は首を捻る。
「ロサイズム…」
思わず呟きが漏れると彼はそれを汲み取り、話を進めた。
「そうだ。最近、巷で話題の宗教団体。実は今、第一課含め公安全体があの組織に睨みを効かせていてね。私たちは別件であの廃工場…『早瀬精密機械工廠』に訪れる機会があった。実は君たちが捕まったのも元を辿れば私たちに原因がある」
「どういう事ですか」
明らかな論理の飛躍があった。『私たち』というからには誰かとあの廃工場を訪れたのだと思うが、一体全体『彼らが工場を訪れること』と『俺たちが捕まること』に何の因果があるのか。
返答と待っているとセキさんは左人差し指を宙に立てて、口を開いた。
「ナイフだよ。業平くん、あそこに真新しいやつを一本落としていったろう。私たちはそれを含めた収集物を鑑識に提出した。その後すぐに私とアリムラは捜査から外された。理由は不明。だが、間違いなくここで何かが動き出した。それから程なくして君たちが捕まった」
「…対L班」
その一言にドンと運転席が跳ねた。車がほんの一瞬白線を割り、瞬く間に中央へと戻る。
「…驚いたよ。まさか君の口からその言葉が出るとは。それだ。私も名前しか知らないのだがね。君たちは何らかの禁忌を犯していて捕まった。そうだろう?」
再びバックミラー越しに視線が交錯する。やがて俺が事の詳細を話そうとすると、彼はそれを左手で制した。
「…実は、ラ——」
「おっと、話すのは厳禁だ。大抵、こういった秘密部隊が動く時ってぇのは『知る事自体が罪になる』ケースが多い。実際、君と三宅くんの調書は殆ど黒塗りにされて読めなかった。分かった事といえば、君が友達の山神くんを探していた事くらいのものだよ」
セキさんは「一時は公安部の参事官…ナンバーツーだったんだがね」と眉を顰め、ため息を吐いた。俺はその言葉に警察組織の深淵を垣間見つつも関心は別のところにあった。
…三宅くん?
三宅さんと知り合いなのだろうか。俺は脳裏でハテナを浮かべながらもその疑問はふって湧いたそれに上書きされた。
「…そういえば、三宅さんは?俺と同じなら、何処かで勾留されてるはず…」
答えは即座に返ってきた。
「心配するな。私の相方が迎えに行っている。これから行くところで落ち合う手筈だ」
そう言うとセキさんはクスリと含んだ笑みを湛えた。
「三宅くんは昔、私の部下だった時期があってね。今は歳食って丸くなったが、若い頃は相当に尖っていた。組織云々より『正義』の優先。あれだけ曲がった事が嫌いな癖してトントン拍子に出世するんだから面白い。…とは言っても『老虎蛇』の件でとうとう運も尽きたようだがね」
本当に三宅さんの事を気に入っていたようでセキさんは愉快そうに声色を上げる。
「その話、詳しく聞かせてもらってもいいですか」
それからしばらく語れる限りで三宅さんの若い時の話を聞かせてもらいながらの移動となった。やがて何処かのビルの地下駐車場へと至り、三宅さん、同行者のアリムラさんと合流。
挨拶もそこそこにアリムラさんを除き、セキさんのセダンに乗車。そのまま発進した。
アリムラさんを置いていったのはセキさん曰く、これから行く場所は限られた人しか知らないらしい。先ほど『元参事官』と言っていたのも関係ありそうな話だった。