百八十五記_あの日の贖罪
——翌日(二〇ニ四年、八月二十一日)
早朝、俺は眩い光で目が覚めた。それは電灯の瞬きだった。
俺はあの軽口の男に言われたように布団を畳み、部屋を掃除する。
しばらくすると昨日、俺を牢に入れた人物が現れ、彼に連れられ洗面所へ。その後に朝食をとる。
周りには男を除いて誰もいない。ここに来るまで誰とすれ違うこともなかった。
…俺以外に被疑者がいないなんてことあるのか
俺は食事を摂りながら、疑問を呈す。起訴されていないだけ犯罪者である自分を『被疑者』呼ばわりするのは気が引けるが、『留置所』というものは被疑者(犯人の可能性が高い人物)の身柄を拘束する警察施設だったはずだ。
…とすると昨日の人たちは少なくとも警察内部の人間
「どうした、早くしろ」
…っ‼︎
突然の冷徹な声に体がひくつく。慌てて目の前の食事を掻き込むと俺はその足で取り調べ室に赴く事となった。
「よお、昨日ぶりだな『93番』」
…93番
それが今の俺の呼称だった。名前で呼ばれなくなった事で自身が犯罪者になった事を強く自覚する。軽薄そうな男の反対側に座ると取り調べが始まった。
取り調べ自体は終始、穏やかなものだった。刑事ドラマのような恫喝や尋問などといった戦々恐々とした様子はない。もしかしたら、俺自身の有罪が現時点において確定していると言うのもあるのかもしれない。
「どうして山神新を追い始めたのか」
「事件現場をどうやって突き止めたのか」
「ラビリンスでは何をしていたのか」
俺が新の行方を追い始めてから、警察に捕まるまで行程や動機を細やかに聞かれ、俺はそれに対して基本的に肯定。もしくは補足と言った形で応対し、その供述は調書として認められていった。
昼頃になると食事と運動。それから夕食まで取り調べ。夕食を終えると取り調べが再開される。そうして一日が過ぎてその日も就寝時間となった。
翌日、検察へと送致され、警察と似たような取り調べを受けると再び留置場へと戻される。その日から二日間、俺は調書作成のための取り調べを受けるとなった。どうやら起訴するにはより詳細な情報が必要らしい。
「うぇ…。マジかよ。93番、ラビリンスの怪物たちと生身でやり合ってたのか…。無知ってぇのは恐ろしいな」
目の前の彼は露骨な苦笑いをする。その反応はグレイを始めとするラビリンス人と同様。やはり、ラビリンスを認知する人からすると『紋章を用いて戦う』と言うのは常識らしかった。
四六時中、調書作成という名の雑談に興じていると緊張も解け、友達と話しているような気分になる。だが、頭の隅では死への本能的恐怖が強まっている事を感じていた。
もしかしたら、俺を担当するお調子者の警官はそういう恐ろしさを軽減するために今のように振る舞っているのかもしれない。
…いや、それはないか
俺は目の前でペン回しをし、鼻歌混じりに調書を作っていく彼を見てながら、自分の考えを否定する。どことなく話好きの印象が強かった。これがもし演出であれば、警察もそこがしれない。
兎も角、少なくとも建前上は警官とかなりの仲を深めた俺は彼について幾らかの情報を得ていた。彼の姓は小笠原という。聞いたことによると警視庁公安内部の組織 「総務課:ラビリンス関連事案収拾班『テセウス機構』」——通称『対L班』に所属しているらしい。
協力者である山本さんが追っていた『対L班』。それが俺たちを捕縛した組織の正体だった。ちなみに山本さんもクラッキングで失敗した結果、彼らによってすでに逮捕されてしまっているとの事だった。鯔のつまり全滅である。
また、俺が他の被疑者と全く蜂合わないのは起床時間やその他のスケジュールが全てズラされているかららしい。『ラビリンス』に関する事は国でもトップクラスの秘匿事項らしくそのような措置が取られるとの事だった。
『何故、そこまでしてラビリンスを隠すのか』といつか聞いた時『紋章然り、門然り、魔獣然り。ただ一つで情勢をひっくり返せる要素が多過ぎる』と言っていた。それ故に世界各国の総意でラビリンスに関することは伏されているらしい。偶々、知ってしまっただけでも厳罰に処されるそうだ。
「よし、大体筋道も出来た。そろそろお暇だな」
小笠原はようやく終わったとでも言うように重々しく立ち上がると書類を片手に伸びをする。それから対面している俺に近づくと肩に手をかけた。
ふと見上げるとその顔にはいつもの剽軽な調子はなく、申し訳なさそうな面持ちだった。
「…93番。お前が悪い奴じゃないのはよく分かった。けどな、恩赦はない。ここは法治国家だ。理由は関係ない。法を犯すこと。それが『罪』だ。善悪は法が定める。…すまないな」
俺の肩からゆっくりと手は離され、やがてカツカツという乾いた足音と共に彼は取調室を後にした。
その後、俺はいつものように口の固そうな刑務官に牢に戻されると業務連絡を告げられた。
「これから身柄送検の後、起訴。裁判にて死刑の確定が行われ、刑執行までの間、拘置場で生活することになる。伝達は以上だ」
刑務官の足音が遠のき、聞こえなくなるとようやく取り調べが一段落したことを実感した。
檻の中で大の字になった俺は深く息を吐く。低い天井をぼんやりと見つめながら、思考に身を任せる。
…終わった
『新の行方を知る』その目的は果たされたが、結果として俺は法律を侵犯し、死刑囚となってしまった。しかし、思いの外後悔はない。確かに死ぬのは怖いがあの時…歩夢ちゃんの死を何もかもが終わってしまった後に知ったそれに比べれば是非もない。
今回は間に合ったのだ。自発的に動けたのだ。
あの時の俺が出来なかった事を全てやってのけた。贖罪だろうか。例え、そうであっても構わない。徐にこれまでを振り返ると体に充足感が満ちていくのを感じた。
…これで良かったんだ、きっと
俺は胸中で呟く。その時、自然と口角が上がっていることに気づいた。本当に不思議だ。何日か、何ヶ月か、何年か。その先に死が確定していると言うのに俺は幸せを感じている。
やがて満足感からかうつらうつらし始めた俺はいつの間にか寝ていた。夕食どきになって刑務官に起こされ、それを食べてから再び寝についた。
これからはこの生活が長く続くのだろうとそう思った。