百八十二記_情報収集
通りを歩いて、感じの良さ気な宿にチェックインした俺たちはひとまず、備え付けの風呂に入った。浴室は広く、浴槽は足が伸ばせるほど余裕がある。部屋は二階で、構造はベッドを二人分置いても余白が残るほどの広めのワンルーム。『アトラス』の修理には明日向かう事となったため、今日の予定は夕飯を食べて寝るだけだ。
…あ
三宅さんが風呂から上がるのを待つ間、風呂上がりの余韻に浸りながら、ボヤボヤとしていた俺はある一点で視線を止める。
その先にあるのは一脚の丸机。その上にあるのは丸い縁取りに柄のついた虫眼鏡型の道具。リヴィアに貰った珍妙な品だった。すでに凸レンズでない事は確認済み。つまりは虫眼鏡ではないのだ。
立ち上がった俺は机の上から徐にそれを取ると一帯を見渡す。するとある一点で変化があった。ラテン語で書かれており、読めなかった注意事項。それがレンズを通すと日本語に翻訳された形で映る。つまりは虫眼鏡型の翻訳機という訳だ。
『この世界の事、調べに来たんでしょ。きっと役に立つから』
確かにこれは便利な贈り物だ。街中の店の名前、商品の解説。図書館があれば、この世界の文献を読み漁ることもできるかもしれない。
その時、ちょうど風呂場の戸が開き、三宅さんが顔を出す。俺が気づいた事をそのまま伝えると彼はほくそ笑んだ。
「やっとツキが回ってきたか」
共に階下へと降りる。一階は飲食店として営業されている。混み具合は程々という様子で席についた俺たちは早速、翻訳機を使って、メニューを吟味する。品はほとんどが肉料理だった。
ガッツリと食べたかった俺はステーキを注文。三宅さんはサンドイッチとガンボスープなるものを頼んでいた。彼曰く、『アメリカ領』というだけあって本土の文化が流入してきているとの事。
夕食をとると再び、部屋に戻る。久しぶりに人里にいるせいか張り詰めていた緊張は解れ、三週間ぶりに心身ともにリラックス出来ていた。ベッドに入るとどっと眠気が押し寄せ俺はそのまま瞳を閉じた。
——翌日(二◯二四年、八月十六日)
同じ飲食店で朝食をとった俺たちは受付嬢に紹介してもらった『彫刻店』に向かった。『アトラス』を渡すと修理(再刻印)には三日程かかるようでその間、ラビリンスに滞在することに決まった。
「そういえば、三宅さん。協力者——山本さんに連絡は取らなくて大丈夫なんですか」
そう聞くと、彼は驚いたように瞼をニ割増しで開いた後に頷く。
「元より一方通行の連絡だ。それに山本もそう簡単に下手こく手合いではない。数日は問題にならないだろう」
「そうですか」
まあ、全く知らない俺が出る幕でもない。三宅さんが大丈夫というなら、問題ないのだろう。
昨日に続いて冒険者組合に出向いた俺たちは街のガイドを貰い、図書館へと足を運ぶことにした。調べたことはラビリンスの文化成立史や構造について。
驚いた事に近代文明がラビリンスに至ったのは十五世紀初頭、『大航海時代』とも呼ばれる頃合いだった。出会いは偶発的だったようである。
ある船乗りが新大陸発見のために船を漕いでいた。風を捉えた船は順調に航路を進み、船乗りたちは船上で賭博に興じていた。そんな時だ。一枚のスペードのエースが煌めいた。偶然にもそれは後に『道標の紋章』というラビリンス世界へと道を示す紋章だった。興味本位でその光を追った船長は『天然の門』を通じて『ラビリンス』へと至ったのである。
本の内容を要約するとこのような感じだ。それからアメリカ大陸のように開拓が進み、今世まで制度が整えられていった訳だ。
次にラビリンスの構造について。大きく『初層』『中層』『下層』『深層』『深淵層』と五つの区画の縦割り構造になっており、『初層』〜『下層』まではほぼ全容が明らかになっている。それから下の『深層』、『深淵層』は一部開拓済みと言った様子。なんでも魔物がべらぼうに強いらしくここ何十年も地団駄を踏んでいるらしい。
…俺たちがいるのは『上層域』の第九層か
『上層』〜『下層』までを細分化するとその中でさらに十三階層存在する。
…もしかしたら、今なら
ふと思う。おおよその全体構造を把握した今なら『アトラス』で場所を指定した転移が可能かもしれない、と。そうなれば、今回のような無理な探索計画は立てなくて良くなる事に加え、街を拠点に動くという事もできるようになるはずだ。
…まあ、あいつを見つけた以上、来ることはほぼないだろうけど
俺は本を片手に感傷に浸る。新も自分の意志でここにいる。なら、俺の出る幕はない。却って、こんな所で鉢合わせてしまっては『俺が巻き込んでしまった』とあいつに重荷を背負わせかねない。
これは俺が勝手にやったこと。それを分かっていても間違いなく負い目を感じるだろう。新はそういう奴なのだ。少しでも自分に非があると『自分が悪い』と拡大解釈してしまう。それが故に謙虚だが、一方で卑屈な性格とも言える。
その難点を歩夢ちゃんが「アレはあっちが悪い」、「これは駄目」など責任の所在をはっきりさせて拭っていたのだが…今となってはそれもない。側から見れば、底なしに暗い人間になってしまっていた。
…こんな事を考えてる暇じゃない
時間は有限だ。より多くを調べなければならない。
それから俺は新について考えることを避けるように情報収集に没頭した。