百七十六記_戦慄
「馬鹿か!君は。あんな怪物に真っ向から挑むんじゃない‼︎」
街を取り囲む森の中に投げ出された俺はその場で叱責を受ける。
「……」
俺は押し黙る。あの時は本気で死を覚悟したのだ。なら、博打の一つ打ちたくなるものだろう。終わるのであれば、せめて証を立てる。仮にそれが身勝手で利己的なものだとしてもただ死を待たず、傍観者でいる事もなく、『背を向けなかった』という生き様が欲しかったのだ。
最後はそういう自分でありたかった。
「…本気で死ぬかと思ったんだ。だから、せめて立ち向いたかった」
俺は視線を逸らしながら、ただ一言そう告げた。
すると三宅さんは「そうか」と物思いに耽るように返す。俺の過去を、決意をこの人は知っている言葉に含まれる含蓄にはすぐに思い当たったのだろう。
「だが、業平くん。無為に命を散らすのも良くない。相手をよく見たか」
俺はその問いに首を振る。とてもではないが、そんな余裕はなかった。
「あの龍は水棲だった。水面から出ているのは胴の上部と首から上だけ。それを考えると陸での移動は困難のはずだ。現にこうして逃げきれている」
その時、遠くであの龍の声がした。その怒号は獲物を逃したことを悔いているかのようだった。ただでさえ獰猛な眼光がさらに血走っていることが容易に想像できる。
叫びが小さくなるとズシンズシンと地響きが鳴り始める。しかし、その音は極めて緩やかだ。やはりあの巨体を動かすには相応の労力が伴うらしい。
三宅さんは音に反応し龍のいる方向に一瞥をくれたが、すぐに視線を戻し命を下した。
「業平くん、潮時だ。『扉』のカードを。撤退する」
「…はい」
感情的にはやるせなく、論理的には納得する形で返事をすると俺は肩紐に手をかけた。
…ない
それもそうだ。さっきあの龍と戦おうとした時にその場でほっぽり投げたのだ。『アトラス』のカードはリュックの中。戦闘中に落としてはとんでもないとしまっていたのが仇となった。
「すいません、三宅さん。…リュックの中です」
申し訳なさが喉元に込み上げてくる。気の迷いから連なる体たらく。冷静さを欠くと碌なことにならない。身に沁みてそれを感じていた。
「なら、取りに行くしか——その場で屈め‼︎」
有無を言わさぬ物言いに体は強制的に反応した。
刹那、視界は白く染め上げられた。耳を伝わるのは高周波と破砕音、そして強烈な風切りだった。先ほどとは一線を画す光線が大地を揺るがした。
振動が収まると俺は恐る恐る顔を上げる。
予想出来ていた。しかし、俺は目を見張った。それはまさしく天変地異に等しい御技だった。
湖と草原を隔てる森は龍のいる場所から扇形に薙ぎ倒されていた。攻撃を終えた龍は先と同じように「SHUUU——」と鋭い息を吐きながら、長い首を緩やかに持ち上げている。
視界が開けたことで俺がリュックを放った場所も露呈した。
どうやら龍が移動したことでそれが放った光芒から免れていたらしい。ただそれは目的のブツが龍の懐にあるという事を示していた。
「三宅さん、急ぎます」
「ああ」
言葉を交わすと同時に駆け出す。目的は言わずもがな「リュック、引いては『アトラス』の奪取」だ。何があっても良いよう互いに武器は抜き身の状態。目まぐるしく眼球を回し、最短ルートを算出。最大速で地を駆ける。
ただ龍もただ手をこまねいているわけではない。俺たちの接近に気づくとその巨体を仰け反らせ、地面をついていた前腕を擡げる。そして両手を大きく横に広げたと思うとそれを素早く交差させた。動作に呼応するように体表の鱗が周囲に飛び散る。
地に落ちたそれはやがて液状のものを伴って、四足の小型獣と化した。
見覚えがある。湖の近くで唯一遭遇した異形、間違いなくそれだった。強靭な鱗を持ち、ワニのような外見をした四足獣。
…なるほど。何気なく倒したあいつがあの龍を呼び起こしたわけだ
それは瞬く間に形を得て俺たちの進路を妨害する。攻撃は突進や噛みつき程度。腹部を突き刺せばすぐに液化する。ただ如何せん数が多い。数が多いというのはそれだけで脅威に値する。
…これじゃ、時間が経てば、経つほど不利になる
襲いかかる小型獣を屠りながら、先を急ぐ。なるべく敵がいない方を迂回しながら、龍の袂へ。踏み潰し、切り裂き、振り払い、叩きつけ。もう何度目か分からない攻撃で浴びた異形の体液が体を藍色に染める。粘性を持つそれは気持ち悪いが、汚れることを気にしている場合ではない。とにかく辿り着かねばならなかった。
あの森を切り拓いた高水圧のブレスのインターバルもじきに終わるだろう。そうなれば、万事休すだ。本来、あれは二度も三度も避けられるものではない。次こそ確実に命を狩られる。
ひたすらに体を動かす。そうして着々と近づく最中、突如として足元に影が差した。
…!
加速度的に大きくなるそれを反射的に転げて避ける。直後、目にしたのは鱗がびっしりと逆立った筋肉質の腕。そう、あの龍の前腕が地に叩きつけられたのだ。
その余波で僅かに体勢を崩しつつも即座に立て直し、リュックのある半壊した民家へと向かう。厄介だったのは、新たに腕から剥がれ落ちた鱗だった。例に漏れず、それらは小型の異形へと変貌し敵対する。俺は包囲が形成される前に一点突破する。
…よし、後少し
胸に湧き上がる安堵。周囲を一瞥すると三宅さんも近くにいることが分かった。
…俺たちの勝ちだ
油断だったのかもしれない。次の瞬間、目の前で信じられないことが起きた。
龍がリュックごと家屋を踏み潰したのだ。
…うそ、だろ
俺はゆっくりと持ち上げられる腕からパラパラと落ちる瓦礫を前に青ざめた。