百七十四記_テルクシエペイア
奥へ、奥へ。ただ湖を目指し、歩を進める。森の中は青白く、進むにつれて足元から霧が立ち込めるようになった。濃霧というほどではないので視界は効く。
ただそれ以上に奇妙なことがあった。
生命の息吹をまるで感じないのだ。
森にいるのは敵意を抱くような動物だけはない。元の世界にいるような小動物も当然、存在する。それらは豊富で木の上や森の天、はたまた地まで忙しなく動き回っている。
ここには、そういったものがまるでないのだ。
もちろん、敵対の気配も感じない。
脳裏に浮かんだのは体に傷を走らせた異形の『視線』。それが何を指すのかは全く分からない。ただ無性な不安に俺は駆られていた。
体は強張り、右手に握る短刀が手のひらを抉る。
…深呼吸、深呼吸だ。俺…。
意識的に右手にかかる力を緩め、空気を鼻から大きく吸って、口から吐き出すことを繰り返す。体の緊張はいくらか取れたものの、脳裏では未だ言いようもない焦燥が燻る。
その時だった。地面の感触が突如として変わった。
森の中特有の柔らかく、土や草のの量感のある地面から硬いものへと。その感触には覚えがあった。石、レンガ、コンクリート…人造の道特有の強堅さだった。
思わず、足元の土を脚で削る。すると灰色の煉瓦が剥き出しになった。一つではない。連なった形だ。
「三宅さん、これ…」
「ああ、間違いない」
似たような動作をしていた三宅さんと視線が合う。付近の道の表面にある土を取り除くと四メートル近い道幅があることが分かった。以前(どれほどかは分からないが)、人の往来はかなりあったのかもしれない。
「この道を辿ろう、業平くん。恐らくは放棄されているが、何か残っているかもしれん」
俺はそれにこくりと頷く。
『街道の発見』
それは、この世界に来て初めての成果と言えた。
舗装された道に沿って進むと木で作られた看板や、石を削った標識が見え始めた。さらに進むと所々、破壊痕の残る柵が現れ、煉瓦で作られた道も剥き出しになる。やがて、簡素な石造りの門が現れた。
円柱の形に煉瓦が積まれ、中央の長方形の板には大きくローマ字が彫られている。
『Thelxiepia』
恐らくこの先にある町か村かの名称だろう。
「…Thelxiepia。安息を語るセイレーンの名か」
俺が門を潜ろうとした時、立ち止まっていた三宅さんがぼそりと呟いた。
「分かるんですか」
「ああ。これは古代ギリシア語だ。恐らくあの狩人たちの憩いの場として作られたのだろう。衣食住が整えられ、生活拠点になっていたのかもしれない」
俺が振り返って問うと三宅さんは物憂げな様子で石門を見つけていた。
「ここがどのような形で廃れたのかは知らないが、人の営みというのは積み上げるのは難しく、崩れ去るのは刹那だ。…何度、見ても荒廃した地というのは堪えるな」
曰く、ゲリラやテロが横行する紛争地域で仕事をしていた時によく見た光景のようで寂れた町を見るとどうも感傷に浸ってしまうらしかった。
「すまない、取り乱した。先に進もう、業平くん」
「…はい」
俺はただそう答えた。平和ボケしている俺にはそれ以上、言葉を連ねるのは憚られた。
「着いたか」
街は酷い有様だった。木や石で作られた家や店はほぼが半壊しており、内装が露出している。何かを持つ出す余裕はなかったようで土埃のかかった物品がそのままの状態で鎮座していた。
煉瓦の張り巡らされた広場や街路には亀裂が入り、強い力で踏み破られたような跡が点在。森の自然に侵食されているような場所もあり、街としての機能していないことは明らかだった。
「異形に町全体を襲われた…?」
「そうだろう。それも数十では効かない。…中には途轍もなく大きい個体もいたようだ」
三宅さんは陥没した道を指差す。波状に亀裂の入った中心には大きな足跡が残っていた。
横たわってみると亀裂の大きさは俺の身長よりやや大きい。
「どんな感じですか?」
「足だけで一.五メートル弱。業平くん、これはもはや恐竜種の大きさだ」
曰く、類推できる生物の体長は十四〜五メートルほど。足の形は爬虫類に近く、足運びから見ると四足歩行型の可能性が高いとのこと。
「様子を見るに最近活動した形跡はないが、近くにいないとも限らない。調査は慎重に行おう」
「はい」
近くの家から湖の方向—街の中心地にかけて探査を始める。異形に挑んで倒れた兵士、袋小路で息絶えた人、怯えるように抱き合う誰か。時折、こういった当時の凄惨さを残す場所に出会した。俺はその度に気持ち悪くなっていたが、三宅さんは冷静に仏に手を合わせていた。
「業平くん、気持ちは分かるが…人知れず死した人は誰かに見つけられることを待っている。…今は丁重に扱うことは出来ないが、せめて『見つけました。安らかにお眠りください』と手を合わせて、伝えてやってくれ」
そう言われてから、俺は仏の前では気丈に振る舞うようになった。向き合う度に胸中に込み上げる、言い表せぬ不快感が消えるわけではない。
ただ俺の不快さは一過性のもの。ただ死者にとって俺たちの光景はきっと最後に見るものだろう。そう思うとなるべく優しくありたいと感じる自分がいた。