百七十三記_獣の視線
——翌日、北の森
「…業平くん、準備はいいか」
俺はそれにこくりと頷く。茂みから覗くは湖近郊の森と現在地を阻む平野。道中、少なくない異形が闊歩している。
リュックの肩紐がよく締まっている事を確認し、腰元の短刀に手をかけ、体を前傾させる。
静寂の刹那。
「出る!」
後ろから背を叩かれるような喝を受け、俺は短刀を引き抜きながら、茂みから勢いよく飛び出した。瞬間、俺たちの存在を察知したのか、草を食んでいた水牛型の異形の耳がピクリと動き、頭を擡げた。体数は三。
ザッ、ザッ、ザッ!
視線が交錯した瞬間、前足で土を蹴る動作が止み、こちらに向かってすっ飛んできた。最初の二頭走りながら、足運びで躱す。しかし、極端な体重移動をしたせいで体勢をすぐには戻せず、否応なく迎撃に移行する。
俺は上半身を捻り、剣の腹で突進を受けた。ビリビリという確かな痺れと共に体ごと押されるも空中でいなし、難を逃れる。
地面を滑るようにして着地するとすぐさま、反転。すでに次の突進の準備を整えていた異形を見据え、軌道を予測。すれ違いざまに大きく踏み込み、短刀を押し当てる。すると胴に深く入ったそれは相手の勢いをそのままに身を深く抉った。
行動不能を悟った俺は余韻に浸ることなく湖のある方へと走り出す。
…三宅さんは
目端で探るとやや前方に彼の姿を発見した。拳銃からは硝煙が上がっている。後方にはのたうち回る二頭の水牛型が二体。俺と同じように相対したのだろう。腹から血を流して倒れている。あの異形たちも例に漏れず、人を恐れない、逃げ出さない。むしろ同胞が狩られている分、敵意が高い。この世界においては双方向、『狩る側』であり『狩られる側』だ。
それが北の森から湖近郊の森までの道のり、草原の横断の最もな懸念点だった。
俺は移動速度を緩めず、限りなく戦闘を回避しながら目的地を目指す。
平野の三分の二に差し掛かろうというとき、相変わらず先頭を走る三宅さんの背に黒い影が落ちた。痩せ型の黒毛に覆われた四足獣。
そう。草食獣が存在するということは、当然それを『食』とする肉食獣も同様に存在する。
「三宅さん、八時方向!」
俺は最低限の情報だけを叫ぶ。瞬間、彼は振り返ることなく、銃を左脇から露出させ、発砲した。顎門が首にかかる刹那だった。四足獣は胸に銃弾を受け、空中でわずかに硬直すると肩から地に落ち、後方に転がる。
強烈な殺気を感じるはずだが、動きは極めて円滑だった。
…とんでもない豪胆さだ
俺は苦笑しながら、立ちあがろうとしていた恐らくネコ科に属するであろう化生の首を刎ねる。眼前には地で悶える異形たちはまさしく死屍累々《ししるいるい》だ。
三宅さんは一向に移動速度を緩めることなく敵を屠り続けている。視野の外となるとやや反応が遅れるが、それも俺が後ろに入れば対して問題にならない。
そして、仲間が多数やられる最中、飛び込んでくるような猛者はそういない。駆け出しこそ、苦戦を強いられたが、それ以降はお茶の子さいさいだった。強いて言えば、三宅さんの撃ち漏らしを確実に処する。それだけだ。
やがて俺たちは転がるようにして湖近郊の森へと足を踏み入れた。作戦の成功によって僅かながら達成感に浸る。その時、背にじっとりとした視線を感じた。
草原の方を振り返ると、点在する異形の一体の視線がこちらに注がれていることに気づく。
まだ俺たちがいるのは草原と森の狭間。追撃は可能だというのに彼らはその場を動くことはない。ただこちらを見つめ続けるだけだ。凝視するとその華奢な体には前足から後ろ足にかけて大きな傷跡が走っているのが分かった。
静かな視線と傷跡、異形が発する独特の雰囲気。その異質さに思わず息を呑む。腹から喉元まで畏れが立ち上り、視線の圧に押されるままに後ずさる。
トン。
背に何かが辺り、反射的に飛び退き短刀を構える。だが、その正体を目にすると緊張はふと解けた。
「…ほっ。三宅さんか」
筋肉が弛緩し、肺から息が零れる。脱力した全身を包んだのは安心だった。
「?どうした、業平くん。先を急ごう。ここはまだ浅い」
こちらに顔を向けてそれだけ告げると三宅さんは森の奥へと進み始めた。逸れないよう俺も後を追う。どうやら三宅さんはあの視線を気にしていないらしい。
あの異様さは俺の勘違いなのか、それとも…。
先行きの不安が杞憂であることを俺は祈った。