百六十九記_パンドラの開帳
——ニ〇ニ四年、八月十四日
「へへ、どんなもんかな。国家機密ってやつぁ」
夜にも関わらず、電気が点っておらず暗いままの部屋。その中を数枚のモニターが照らしている。床には一つの不気味な影が伸びていた。
それを辿るとモニターの前で鋭く息を切りながら、嬉々としてキーボードを叩き込む背中に至る。
山本だった。
一ヶ月以上も手入れをしていない髪と髭は伸び切り、とっ散らかっている。
広いデスクには書き殴られた大小のメモの数々の他に本。お菓子の包装紙が散乱しており、彼の手元には作業の合間で食べたであろうカップ麺の空き箱が縦積みになっていた。
山本の悪い癖だった。
殊、探究心を擽られると私生活が疎かになってしまう。謎を謎のままにはできない性分なのだ。今回は『警察に尾を掴まれると危ない』と言う関係上、何とか警視庁まで出社していたものの、普段はそれすらも構わずに部屋に閉じこもってしまう。
そして、時折、調査員が彼の様子を見にくると薄汚い部屋の中から獣臭のする男が出迎え、大きな手がかりを授けるのだ。
だから、彼の横暴は黙認されていた。むしろ『引きこもらせると作業が捗るから』と自宅マンションで特別工事が行われ、警察の独自ネットワーク『ONE』に接続可能な環境が整備された程だった。
また容姿の変貌も見過ごされていた。元々、山本がそれに興味がないことは他の調査員のよく知るところだった。
『何かまた調べているのだろう』
その程度の認識だった。もはや日常と化しており、誰も疑問を有することはなかった。
「…さてっと」
山本は『ONE』ネットワークにアクセス可能な端末から一本のコードをノートパソコンに繋ぐと、興奮を抑えられない様子で歪な笑みを浮かべた。
「ほらよっと!」
すかさず、『Enter』キーを叩く。すると無数の文字に埋め尽くされたウィンドウが高速で開閉を始めた。山本の書いたプログラムが起動したのだ。
…よし。今のところ、エラーは吐いてないな
夥しい文字列を追いながら、山本は一息つく。
山本は『山神新行方不明事件』のデータ組成を追う中で『ONE』ネットワーク内に無数に存在するカオスコードの内、幾つかと繋がりがあることに気づいた。
カオスコードというのは『AをやったらBを、BをやったらCを…』というふうにイフ条件が無数に仕掛けられたもので、本来なら長いだけでプログラマに敬遠される代物だ。
ただ意図的に利用し、他のプログラムと複雑に絡み合わせることでそれは『パンドラの箱』にもなり得る。
山本は今、そうした警察が禁忌指定したもの一つに手をかけていた。
…仕事の間に『ONE』ネットの中に仕込んだ『バックドア』もうまく機能してる
プログラムは時々、ファイアウォールにぶち当たるがまるで計ったかのようにすぐさま突破される。その様子はまるで泥棒を家に招き入れているかのようであった。
この時、警察のサイバー班による発信源の特定も進んでいたが、山本が仕掛けた数々のダミーサーバーによって足止めを喰らっていた。
やがてプログラムは止まり、山本のパソコンには一つのウィンドウが現れる。その中にはいくつかフォルダが内包されていた。彼が即座にそれを自身のデスクトップにドロップするとダウンロードが始まる。ダミーサーバーは着々と破られていたが、データを持ち去るにはまだ十分な時間があった。
『100%』
データを完全にコピーできたことを確認すると山本は自身の足跡を消す作業に入る。入念にそれを終えると猫背を崩し、背もたれに倒れ込んだ。
ふぅ…と一息ついて両腕を天に上げて盛大に伸びをする。
「さて、さて…、何が出てくるのやら」
山本は喜色満面の笑みを浮かべてフォルダにカーソルを合わせてタップした。
ブー、ブー、ブー!
その時だった。彼のパソコンは突如としてけたたましい警戒音を発した。
刹那、山本は硬直した。
…しまった、やっちまった
数秒の後、天を仰ぐ。事は単純、ファイルに仕込まれた地雷が反応したのだ。いつもなら、先にエディタを開いて、誘発されそうなプログラムを削除してから閲覧する。
あまりに初歩的なミスだった。サイバー課に入ってきたばかりの新人でもやらないほど絶対的なタブー。もちろん山本も今までにそんな致命的な間違えを起こした事はなかった。
完全な油断だった。
国家最高峰のサーバーにバックドアという裏技ありきとはいえ、クラッキングを成功させたこと。山本は、それを成した自分自身に有頂天になっていた。
「…ああ。こんな馬鹿なのは初めてだ」
彼は天から地に叩きつけられたような気分を味わっていた。まるでイカロスである。
山本は分かっていた。あのアラートは現在地を伝えるものであることを。
逃げても無駄。山本宅からの突然の発信。つまりは彼がやったことが警察側に露見している以上、逃亡の末に捕まることは想像に難くない。直にこの事件の隠蔽を企む公安内の組織が訪ねてくるのは明らかだった。
…しばらくはムショ暮らしか
彼は先を見据えて項垂れた。だが、胸中とは裏腹に力無く膝に置いたままのノートパソコンに手が伸びる。捕まることが分かった上で成果物の確認だけはしたかったのかもしれない。
「あはは、あははははは」
渇きしゃがれた声が一室に木霊する。それには『山神新失踪事件』の顛末の他、『日系人大量移民の謎』、『警察の秘密組織』。
そして、『ラビリンス』について。
皮肉にも奪取したファイルにはこれまで追ってきた答え以上のものが内包されていた。
しばらくして、チャイムが鳴る。普段なら、配達や友人の訪問など愉快なことを彷彿とされる鐘が山本に重々しくのしかかる。
彼は徐に立ち上がるとのそのそと玄関の方へと向かい、ドアを開いた。
外には数人の人影があった。格好はバラバラ。だが、佇まいが一般人を思わせない。山本とて『公安警察』の人間だ。すぐに正体に気づいた。
これから捕まる事は分かりきっていた。だが、彼は開口一番、せめてもの抵抗と言わんばかりに言葉を浴びせた。
「これは、これは『対L班』、『テセウス機構』の皆様方。はじめまして、と。山本元でございますってな」
道化のように揶揄う山本に取り合う事なく、最も彼に近い男が手錠を取り上げる。
「…警察だ。八月十四日、二十一時三十三分。山本元。不正アクセス禁止法及び秘密保護法違反で逮捕する」
こうして真実に辿りついた男は虚しくも連行された。