百六十七記_端緒
トントン。
しばらくして彼の肩が桐木によって軽く叩かれた。それに飛び上がるような反応を示すアリムラ。膨大な情報を瞬間的に処理するには極限の集中が必要になる。加えて、物事を進め始めるとそれ一辺倒になる彼の性格も災いしていた。
車は邸宅から数十キロ離れたショッピングモールの地下駐車場に来ていた。地下は電波が鈍くなる。一般人には煩わしい場所だが、隠密を考える調査員にはもってこいの安全地帯だった。
「なんか分かったか」
「…今いいところだった。ヤツが葛城と商談をしてる」
葛城というのは先ほどの邸宅の主だ。最近、土地投資で大損を扱き、破産寸前まで行ったのだが…翌月には黒字に戻っていた。むしろ資産が億単位で増えていたほどだ。
たった一人なら、運で済ませられる。それでも警察が調査に踏み切ったのは同例が数多く確認されたからだ。
ターゲットの多くは富裕層。
まるで未来を読むかのように想定外の急騰を起こした株が直前で彼らによって買われるのだ。そして、その個人は莫大な資産を手にする。
類似性からその特定の個人に関わる何らかの勢力が存在すると踏んだが、通常の調査では犯人の尻尾を掴めなかった。結果、それまで大きく稼いだ人と類似性を持つ人物と縁のある場所に盗聴器を仕掛けるという違法捜査に手を染めざるを得なかった。
そして、例の『ロサイズム』が線上に浮上したのだ。
ロサイズム。宗教法人としての登録は為されている。
『黒バラの王によって世界は再び浄化へと向かい、偽りの繁栄は崩れ去り、原初の楽園に至る』これが予言とされる。新興宗教というよりカルトに近い。
浄化、つまりはリセットを経て作られる新しい世界に行くために教団に入り、修行をする。そこは世界の宗教でよく見られる楽園思想によく似ている。
そのカルトに属すると思しきある男が資産を著しく増加させた個人と頻繁にあっていた。盗聴器の記録によって割り出された彼を追う。それが現在、公安の総務課と外事四課合同で行われていた。彼らもその部隊に組み込まれた調査員だった。
アリムラがイヤホンジャックを外し、当該の取引の場面を再生する。
『いやさ、相談があってさ〜。ちょっと烏谷の方に悪さしてもバレなそうな良い土地ない?』
その挑発的な声は例の男の特徴だ。軽薄で掴みどころのない感じは聞く人に何処となく不安を煽る。それは葛城もそうらしく、声色は終始オドオドとしていた。
『そ、そう言われましても私としても悪事に加担するのは…』
するとそこでクッションと思われる音が響いた。それからカツカツという足音。一度音は遠ざかり、再び近くなる。その音から男が葛城の元に移動していることは想像に難くない。
『こないだ、大分勝たしただろ、いーじゃん。君のことは秘密にするからさぁ』
木製の机が押し込まれるような音の後、小さく蠱惑的な声が響いた。人を拐かすことに長けている。アリムラと桐木はそう思った。その声の軽さが罪の意識を軽減させる。それに加えて経済的に潤してもらったとなれば、義理の一つ働いても不思議ではない。
『一つあります。ボロボロですが、烏谷の住宅地の中にある旧・早瀬精密機械工廠。土地の値打ちが一億近くもあるせいで親族間で相続トラブルの元となり、一時的に長男の私の保有となっています。条件としては売らないということだけ。中は自由にしていただいて構いません』
葛城は呟くようにポツポツと口にする。相手の口車に観念し、背中を丸めて悲壮感を漂わせる葛城の様子が音声から感じられた。
『ありがとー。そんじゃ使わしてもらうね〜』
道化のように悪戯めいた声色を鳴らしながら、足音は遠のいていった。
パソコンからの再生が止まると車内の二人は顔を見合わせた。
「「早瀬精密機械工廠!」」
それは隠蔽工作が行われた『山神新行方不明事件』の現場だった。
二人は合点がいった。当時、なぜそこまでの工作を働いたのか不明だった。事件捜査に組み込まれた調査員とはいえ彼らは末端。当時、彼らが隠蔽工作に動いたのは上層部の指示、それだけの理由だった。意味のない所で反目しても利はない。多くの組織に属する人間はそれを知っている。彼らもそれらと同様だった。
全ては『違法捜査を隠し通す』ため。いくら必要なことだったとしても、世間は実情や過程を知らない。後になって報道という形で報告だけが行われる。だから、ルール破りは反感を買いやすい。そして、市民の目が厳しくなると積極的な捜査が難しくなる。
最もな理由だ。
「アリムラ、工廠に行くぞ。こりゃ、面白くなってきやがった」
中年の顔がパッと明るくなる。青年には桐木の声がいつもより張りがあるように感じられた。
…これは久々にやる気だ
アリムラは心中でほくそ笑んだ。桐木が傀儡を辞めるとなると大抵は一波乱あると彼は知っている。そのイレギュラーは職務の退屈を晴らしてくれるので彼としてもモチベーションが上がることだった。
「それより仕事やったんだから、パリボリ返せよ」
「ほらよ」
パリボリと呼ばれたスナック菓子がアリムラの膝上に放り投げられる。彼は機材を速やかに片付けると封を破って、食し始めた。
「そういやセキさん」
「なんだ」
目的地に向かう車の中で青年が何気なく話しかける。すでに手元のスナック菓子は空になっていた。スマホをいじるのにも飽きたのか、幅広のアームレストの上に置かれている。
「そもそも何だけど『ロサイズム』って何なんだよ」
ふとした疑問だった。『ロサイズム』、予言と行動指針のようなものは分かるが、実態が謎だ。
何も分からない。『山神新行方不明事件』と『ロサイズム株式急騰予言』の繋がりは見えたが、それだけだ。
「さあな。けど、噂なら聞いたことがある」
そうしてセキはとある噂話を始めた。
『対L班』と呼ばれる上位の権限を委譲されている公安職員でも知らない組織のことを。
「おそらく対P班に倣った名付けとは思うんだがな。そのエルが何を指しているのかは誰も知らない。おそらく内容を知ってるのは部長くらいだろう。一時期参事官やってた俺がいうんだから間違いねえよ」
曰く、この事件は当初からその『対L班』が投入されている可能性が高いらしい。それは現場にやけに動きがいい割に見たことのない人物がいたからとのことだった。
公安の上層部は各所に出向いてスカウトを行う。故に目ぼしい人物とは接点があることが多い。しかし、公安に随分と長く籍を置くセキでもっても存在すら認知していない調査員が現場にいたらしい。
「まあ、ここだけの話だ。アリムラこれは他言無用だ。いいな」
セキはハンドルを握ったまま、確認をとる。すると車は間を読んだように高速道路のトンネルに入った。
「そもそも『山神新行方不明事件』は始まりからしておかしいんだよ。実はな、山神新は事件が起きる遥か前から数多の『秘撮』、『秘聴』と監視を一手に受けている。それも交代でだ。だから、本来なら事件は起こるはずもなかった」
それを聞いたアリムラは息を飲んだ。その事実は張り込んでいたはずの公安調査員が何らかの形で無力化されたことを示すからだ。
「そんでだ。これは俺の筋読みだが、山神新は随分と昔からロサイズムに近しい何かと関係を持ってんじゃねえかって思うわけよ」
「で『対L班』はそっちの管轄何じゃねえかってな。まあ、確認しようがねえから、想像どまりなんだが」
そこまで話し切るとセキはホルダーから空いたままのペットボトルを引き抜き、呷った。確かにこれだけ饒舌に捲し立てれば、喉も乾燥するだろうと青年は思う。
「それで、話ズレてるけど。ロサイズムって何なんだよ」
「そうだな、公安の捜査網を潜り抜けられるだけの武力と圧倒的なまでの経済力を背景に活動するカルト宗教団体」
情報をまとめてセキは言い放つ。字面だけでも途轍もない組織だとアリムラは感じる。
楽園思想は置いとくにしても金があるというのはそれだけで脅威だ。資本主義は金が神のような扱われ方をする。故に金があるということはそれを持ってして数多の人を手駒にできることを意味するのだ。信仰など二の次の大問題だった。
…それに公安を出し抜けるだけの知恵と武力、か
アリムラは「いつの間にか領分を逸した事件に首を突っ込んでしまったかもしれない」と漠然と考えながら、窓から遠くの山々を見つめた。
かくして、廃工場に至った彼らは崩落した壁と隠された部屋に辿り着く。その最中、拾った場違いの真新しいナイフ。それは何者かが近日中にここを訪れたことを示していた。